忍者ブログ
since 2007 10 24  読み書き、見聞き、したもの。など。 twitter https://twitter.com/takagi_toshi
[1]  [2
 「芸術はいかなる個々の作品においても、人間から注目されることを前提としてはいない。じじつ、いかなる詩も読者に、いかなる美術品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではない。」(ベンヤミン「翻訳者の課題」 岩波文庫『暴力批判論』p69)
 
 ベンヤミンは「認識批判序説」で、真理を美しいといい、それはエロスにとって美しいとする。しかしその真理は認識の対象ではなく、叙述として現れるのであり、体系的な哲学的言辞とは無縁なところに存在する。真理は、説明されるものでも、捉えられるものでもない。ただそこにある。「体系は、理念世界自体の状態から霊感を受けてその形をなしてくる場合にのみ、妥当性をもつ」(前掲書 p117)

 「真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である。だから、真理にふさわしい態度は、認識における志向性ではなくて、真理へはいり込んで消滅することだ。真理とは意図の死にほかならぬ。ヴェールをかぶったザイスの女神像が物語るのは、まさしくそのことであって、真理に問いかけようと考えたものは、ぞうのヴェールが落ちるとともに崩れ折れる。」(「認識批判的序説」 前掲書p122)
 
「経験によって規定されうるような志向としてではなく、この経験をまず刻印する力として、真理は存立している。あらゆる現象性から脱却した存在にのみこの力は所属するが、そういう存在こそは名という存在である。これが諸理念の所与性を規定する。しかし理念は、何らかの太古の言語の中に与えられているというよりも、むしろ、語が認識し意味づけることには迷いこまず、その命名の高貴さを保つ根源的な聴取の中にこそ、与えられている。」(同上 p122)

 「ある個体についてなりたつすべての述語は、その個体概念としての主語のうちにすでに含まれている。『述語が主語にはらまれているように、』主語の持つ『完全な概念』は、ある個体について術定される一切を宿す」((熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』p63)。ライプニッツのモナド論について熊野はこう書いている。ベンヤミンも「認識批判序説」で少し不満気な口ぶりでモナド論に触れている。

 主語に宿しているものを述語として表すとして、それはひとつの分割なのだろう。しかしベンヤミンにとって真理は、あるいは諸理念は分割不可能なものとしてある。それはただ「その内部にはいりこみ、消滅する」ことにおいてのみ現れてくるものなのだろうか。
 彼は「叙述」といった。けれども、それは人間の叙述ではないかもしれない。その「名」はこの世ならぬものかもしれない。
PR
 「奇想天外な小片を継ぎはぎするところにモザイクの圧倒的な力が存するように、哲学的な考察にあっても、飛躍を怖れるには及ばない。個々のもの、異質なものからモザイクは集成される。聖像の超越的な力であれ真理のそれであれ、それをモザイク以上に強力に教えうるものは、ほかにあるまい。思考の細片の価値は、基本的構想の尺度をもってしては直接に測りえないものであればあるほど、それだけ決定的になる。叙述の光彩がそのような細片に依存していることは、モザイクの光彩がガラスの融解片の品質に依存していることと異ならない。造形的ないし知的な総体のサイズにたいする緊密な細工の数々のこの関係から、ある事実の細部という細部への沈潜によってのみ真理内容は把握されうる、ということが分かる。」(「認識批判的序説」 『暴力批判論』岩波文庫所収p109)

 素敵な章句だ。「ある事実の細部という細部への沈潜によってのみ真理内容は把握されうる」。「沈潜によってのみ」「把握されうる」。そういう思考の細片の価値。

 ベンヤミン、アドルノ。その共通した空気。
苦痛に満ちた時間だった。

子どもの目をもってベンヤミンが1900年前後の自分が存在したベルリンに滑りこむ。

幻想的なまでに美しく、ベンヤミンが自らの幼年時代を描き出した。回想か? 私には新たな幻視=ビジョンに思える。いま目の前にあるように、その視界は新しく微光を帯びている。

3・11はそれを苦痛に変えた。

幼年時代は、誰にとっても失われている。それは回送され、想起され、あるいは新たなイマージュとして産み落とされる。いずれにしても、それは非在の場所でしかない。しかし、それを実在の場所として生きることができる者たちが来たるべき者たちとして存在していたはずだった。それは<私の>ではなくとも、あるいはどこかで<私たち>の未来らしきものとつながっていたかもしれない。

けれども、この青空も、あの太陽も、3・11の放射能の向こう側にしかない。もう金ピカに光り輝く幼年時代はない。手放しで仰ぎみた何かはなくなってしまった。
ベンヤミンの描き出す美しさは、そのコントラストの向こう側にしかない。
奇妙な「神学」が登場する「歴史的唯物論」について。

『歴史哲学テーゼ精読』で今村仁司はこの「神学」を「超越的原理としての唯物論」として把握している。それは「歴史的唯物論」の原動力としてはたらき、意味と方向性をもたらすものとして捉えられている。野村修の『ベンヤミンの生涯』でもこの「神学」について、ブロッホと対比しながら積極的な評価を与えている。

たしかにそうかも知れないと思いながら、どうしてもベンヤミンのテーゼの「神学」は別のものに見えて仕方ない。

のちの科学主義的な理解と隔たったところにマルクスの思想はあったと思う。マルクスにとって「歴史的唯物論」は実証主義的に「論証」されるものではなかっただろう。その思想の内部に超越的な原理をもっており、それが思想全体を支える土台になっているものだと思う。

けれどもベンヤミンのいう「神学」はどうしてもそういうものに見えない。それは学生時代、私の周囲に共産党や民青同盟の学生活動家がたくさんおり、彼らの言動に触れていたからだ。
ベンヤミンはこう書いている。

「歴史的唯物論」とよばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには。
 
どうしてもこの「いつでも勝つことになっている」というフレーズがひかかってしまう。
このテーゼが書かれた時代、ナチスがドイツを制圧し、フランスまでその占領下に置こうとするとき、ベンヤミンは「歴史的唯物論」は「いつでも勝つことになっている」と考え得たのだろうか。もしそうであれば、その「勝つ」という意味は何を意味しているのだろう。

この「必ず勝つ」という趣旨の言葉を学生時代、その共産党の活動家諸君から、イヤというほど聞かされ、入党をオルグされた。それは歴史の法則であり、「自然の法則と同様に鉄の必然性をもって貫徹するのだ」ということだ。「であれば、私が入党する意味などないではないですか?」というと「いや100年後には共産主義社会に移行するかもしれないものを、少しでも早くすることに意味がある」といっていた。そして「科学的社会主義」の「科学性」が強烈に押し出された。その「科学」はほとんど「自然科学」と同様の意味に思えた。
そのあまりにもアッケラカンとした楽観性と進歩への信仰のようなものに辟易とした。世の中はどうみてもそれほど「進歩」しているようには見えなかった。

こうした思想がエンゲルスの『自然弁証法』に淵源があるのか、レーニンの『唯物論と経験批判論』にあやまりがあるからなのか、スターリンの影響なのか、日本共産党独自の空気なのかわからない。
しかし、いずれにしても、生身の人間の思想と行動をほとんど意味のないものにしてしまうような思想や空気には激しく反発した。その科学主義は、自然科学と社会科学の差異をあまりにも軽視したものだと思ったし、一つの信仰にしか見えなかった。しかも本人たちは決して、それを信仰という主体的決断を媒介にしたものとも考えていないようだった。

「必ず勝つ」というその一言が、どうしてもこうした空気を思い起こさせてしまう。そうなるとベンヤミンがこのテーゼでだけ歴史的唯物論に「 」をつけて書いたこともあわせて、これは彼が考える歴史的唯物論と似て非なるもの、客観主義化したそれ、あるいはカウツキーの思想のように思えてならない。

超越的原理としての唯物論、あるいは史的唯物論を科学主義的に歪曲するとき、原理として現実との緊張関係から切り離して、科学的真理のようなものにするとき、そこにうまれるものは一方での教条主義と、もう一方での経験主義だろう。理論が教条となる時、それは現実との拮抗の中でつねに解体され、再構築されることがなくなると同時に、逆に現実=実践は理論から切断され経験主義にならざるをえない。
そして唯物論は死ぬ。
この死んだ唯物論、あるいは客観主義化された唯物論、科学主義化された唯物論が、「必ず勝つ」という言辞を生み出す「神学」のように読めて仕方ない。

レーニンはどこかで現実はあらゆる理論よりも豊かななのだ、といっていたような気がする。そうした思想的スタンスこそがもっとも「唯物論」的なのだと思う。
現実が、あらゆる理論や言葉よりも豊かなのであれば、唯物論とは豊かな、躍動する思想のはずなのだ。

 
ベンヤミン 「歴史哲学テーゼ」

わたしの翼は飛びたつ用意ができている。
わたしは帰れれば帰りたい、
たとえ生涯のあいだ、ここにいようと
わたしは幸福になれぬだろう。
  
ゲルハルト・ショーレム
『天使のあいさつ』

 
「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、それが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、休みなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それを彼の鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方でかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ。

(ベンヤミン著作集1巻 p119~120 晶文社
『ボードレール』 岩波文庫 p335     
いずれも野村修訳)
『ベルリンの幼年時代』によせて。

ベンヤミンはディテールを冒険する。彼はいつも冒険家だ。カーテンの裏で、ベッドの上で、傾斜のついた机の上で。公園の歩道で、いたるところで。ディテールの中に何かの気配を感じ取る。どこか次元の異なる世界への扉が潜んでいる。軽い恐れ。しかし、彼はその世界の扉をあけてしまう。想像力の問題ではない。いや主体的な想像力の発動ではないというべきか。彼はその異なる世界に魅入られ、引きこまれてゆくようだ。
そうした文章を40歳過ぎに書いている。

過去であり、ディテールであること、それが<日常>であること。
その日常のディテールから異なる小宇宙への冒険が始まる。日常の<モノ>たちは別の相貌で働き始める。それは日常からの脱出ではあるけれども、制御された行為ではない。そのことは彼に<この世界>で生きてゆくことを困難にさせるだろう。<この世界>は、彼にとって常に<違和感>の向こう側にある。彼はカーテンの裏側に潜む何かの気配を嗅ぎつける嗅覚であり、同時にその向こう側に身を潜める子どもでもある。その子どもは、息を殺し、薄い布地をとおして向こう側の世界の気配に聞き耳をたてる。床がきしむ。誰かがやってくる。それは災かもしれない。その時、その薄い布地は、この世界とあの世界を区分する。
彼にとって世界は、つねに違和感とともにある。いや、子どもにとって、それは違和感ではないのかもしれない。世界はまだ未知なもの、不思議なものに溢れている。そして異なる小宇宙は実在そのものだ。ベンヤミンは方法的に<子ども>だったのかもしれない。

世界のディテールでの潜行と別の世界へすり抜けて行くことは、ただ空想的な何かではない。そこにある<モノ>はそこにあり続ける。視野に捉えられた世界は、視野に捉えられた世界としてそこにあり続ける。その世界が消え去るわけではない。しかし世界は変貌する。ベンヤミンのまなざしは存在論的に優越している。


革命とは、あるいはこうした世界の変貌なのかもしれない。
 
 関廣野氏が「ベンヤミンの暴力批判論はマルクスの影響のかけらもない」ということを書いている。
しかし、『暴力批判論』は明示的にソレルの『暴力論』を踏まえて書かれている。そしてその『暴力論』の岩波文庫版(今村仁司の新訳)の解説で、今村はこう述べている。(本体は未読)
 

「ソレルは、アナーキストあるいは革命的サンディカリストになる以前は、かなり忠実なマルクス主義者であった。思想の源泉にマルクスがあり、それはソレルの中で、プルードン由来の道徳主義的アナーキズムと共存できたのである。『暴力論』の狙いはマルクスとの対決ではなくて、マルクスの弟子を自称するマルクス主義との対決であるから、ソレルとマルクス主義との批判的かかわりを、ここで簡単にでも考察しておかなくてはならない。
マルクスを尊敬し、その思想に共感しながら、同時代のマルクス主義者たちと喧嘩する以上、それるとマルクス主義との関係はどうしても両義的になる。最初はマルクスの思想に魅惑されて『資本論』(第一巻)の研究に没頭するものの(1890年代)、時が経つにつれて当時のマルクス主義、すなわちエンゲルスによって『科学的社会主義』として教条化されたマルクス主義に批判的になる。とりわけ、ドイツ社会民主党の中に流布している社会主義またはマルクス主義の『解体』を主張するようになる(『解体』するというのは、ソレルが解体するというのではなくて、このマルクス主義が自ら内部解体する事態をまずは意味しているが、事実上はこの教条主義的社会主義を外部から破壊することにも通じていく)。マルクス主義に対する両義的態度――マルクス自身を師と頼みながら、マルクスの弟子たちを批判する――の裏側には、知識人(知識人または知的官僚になった労働者も含めて)への不信感が、他方ではその不信感を補強する彼の実践主義的思想体質がひかえていた。ソレルは、社会と歴史の理論の麺では基本的にマルクスをそのまま受け入れ、実践面ではマルクスの階級闘争の理論をゼネスト論として解釈して、ゼネストこそ現代革命の中心になるべきだという。それゆえ彼が、ドイツ社会民主党やフランス社会党ではなく、革命的サンディカリズムに接近するのは自然の勢いである。」
(ジョルジュ・ソレル『暴力論』(下)岩波文庫版p299)

この部分に続いて、今村は、ソレルの社会民主党から革命的サンディカリズムへの移行のプロセスを簡単にあとづけ、そしてマルクス学者としての「功績」について記述している。

マルクスの理論的作業が未完である部分を「実践的関心に促されてマルクスが残した課題の一つ「賃労働」の理論的構築に着手し、その成果を世に問うた」。「ソレルはレーニンやローザと並んでマルクスの理論を発展させる後継者の位置を占める資格をもっている。」(同p303)
 

私も全然知らなかった。これほどマルクスに近いところにソレルは立っていたのか、と驚いた。しかもレーニンの擁護論まで書いている。
そんなことは充分に承知のうえで、どうして関廣野氏は「しかもジョルジュ・ソレルのサンディカリズムの感化は見られてもマルクスの影響はかけらもないことは注目されるべきである」(『ベンヤミンの生涯』 解説p325)などと言うのだろう。しかも彼は先の一文を引き継いで「さらに」といい、「この論文が法の歴史哲学的研究とされていることは、彼の最後の作品『歴史の概念について』と見事に符合していよう」と述べている。関廣野氏は、「歴史の概念について」も含めて、ベンヤミンを「マルクスの影響」など本質的にはなかったのだと言いたいのだろうか。


しかし私もソレルについて、サンディカリズムということで、てっきりプルードンの流れをくむだけで、マルクスとは敵対的だと思い込んでいた。
政治的磁場の強い世界は厳しい。
今村が述べているように、ソレルにとって社会主義政党が官僚化し、いわばマルクスの思想の疎外態となってしまっているとして、それはいつごろだったのだろう。社会民主党の変質について、レーニンなどよりも早く察知していたのではないか。
しかし現実には、社会民主党と対立することを媒介に、ソレルは革命的サンディカリズムに接近し、あたかもマルクスとは対立するようなシェーマがつくりだされてしまう。政治が現実世界の力学として作用するとき、こうしたことは時折おこる。特に左翼の世界は一定の思想的同一性をもち、それを組織的な結集体として実現してゆく。だから政治的組織との位置関係が、思想内容と同一視されることにもなる。

過去を現在において救い出そうとするベンヤミンは、あるいはソレルを今日において正当にその位置に据え直す役割も果たしているのかもしれない。
 
  ベンヤミンは過去を解放しようとした。その簒奪された意味を、ねじ曲げられた時空を、奪われた世界を。おそらくは。それは「歴史哲学テーゼ」にも流れこむひとつのイメージだろう。歴史の奥底にはとぐろを巻くような、ドロドロとしたものがある。歴史の表舞台に登場することもなく、例えば色川大吉が北村透谷について語ったときの言葉を借りれば、「地下水脈」のように流れ続けているものがある。
それは概念化された言説のなかには収まらないものなのかもしれない。

ベンヤミンのフランクフルト社会学研究所について書いた文章にこう書かれているという。

「民主主義社会の崩壊過程から、その初期とその夢とに結ばれた諸要素、きたるべき社会との、人類そのものとの連帯を否認しないような諸要素は、分離されうるか? この問いに肯定をもって答ええなくては、国を去ったドイツの研究者たちは、多くのものを救えなかったことになるだろう。歴史の唇からこの問いへの肯定を読みとる試みは、アカデミックなものではないのだ。」(野村修『ベンヤミンの生涯』p180 これは何からの引用だろう? 著作集には収められていない文章だろうか?)

…アカデミックなものではないのだ。

ではそれは意志なのだろうか。覚悟なのだろうか。


そして「ベルリンの幼年時代」は、どこに位置するのだろう。
  1931年から32年にかけて、ベンヤミンに自殺の危機が迫っていたという(野村修『ベンヤミンの生涯』p159~)。

その前後の時期、彼は「ベルリン年代記」や「ベルリン幼年時代」を書いている。いま、その「幼年時代」の方をすこしずつ読んでいる。


それは記録ではなく、記憶でもない。

チェーザレ・パヴェーゼは日記をつけながら、それを読み返し、加筆していったという。そうして自己は読まれ、増殖してゆく。その「自己」は、もう自己ではなくひとつの作品であるのだろう。

ベンヤミンもまたそうしたことをしていたのだろうか。

「ベルリンの幼年時代」のベンヤミンは想起されたイメージの、その細部に入り込み、イメージに息を吹き込み、また彼もそこで呼吸する。幻想的で美しいといえば、あまりに月並みな表現だろうか。
そうした文章を断続的に書き記す。自殺の予感が漂っていたベンヤミンが、作品としての自己を突き放しつつ、保存しようとしているかのようだ。以前に高橋和巳が「書くということは、どこかで生命を削っているようなところがある」という趣旨のことを述べていたと思う。たぶん、『暗黒への出発』の中だった。そんな言葉を「ベルリンの幼年時代」のベンヤミンは思い起こさせる。

野村は1931、32年の危機を乗り越えたかのように書いている。そしてソレに続く時代が、経済的な困難と亡命という条件の中で、非常に多産だったと一言述べている。しかし、ベンヤミンには「自殺」というイメージがつきまとっていたのではないだろうか。いや、それとともにあったのではないだろうか。ベンヤミンの言葉の中には、その死が何かの彩りを与えているものがないだろうか。そのように思えてならない。書くという行為にまとわりつく、生命を削り込むような匂いは、彼にとって親しいものではなかったか。

ベンヤミンの「暴力批判論」や「破壊的性格」などにみられる激しさ、その激烈な、すべてを破壊しつくすラディカリズムは、こういうベンヤミンの姿と表裏だということはないだろうか。

のちに彼は、フランクフルト学派について次のように考えていたという。

「とりわけ、研究所(※フランクフルト社会学研究所)の多様な仕事がけっきょくは、『ブルジョア意識の批判に収斂する』こと、しかもその批判が『外側からなされるのでなく、自己批判として遂行され』ている」(野村 p179)

自己批判としてのブルジョア意識の批判。
であれば、ベンヤミンは、破壊すべきものとして「ベルリンの幼年時代」を書いたのだろうか。あるいはそうなのかもしれないと思うようになってきた。

荒ぶる神の暴力は、ブルジョア的な、したがって現存する国家の、社会の、文化のすべてを破壊する。その時、ベンヤミンは破壊し、同時に破壊される側に身をおいているといえないか。しかも破壊されるべき、自己批判されるべき自らの生きてきた世界を、彼は愛情を込めて、美しく描き出す。破壊すべきものとして? ならばきっとその破壊は徹底的でなくてはならないだろう。そしてそれは自己の存在の破壊をもはらんだものだったのかもしれない。
 途中、寄り道していたりしたが、野村修の『ベンヤミンの生涯』を読み終えた。

ちょっと中断したが、少しノートを作る。

解説で関曠野氏が、暴力批判論のころのベンヤミンについて「ジョルジュ・ソレルのサンディカリズムの感化はみられてもマルクスの影響はかけらもないことは注目されるべきである』と述べているのには驚いた(p325)。
その当時、ローザ・ルクセンブルグの書いたものを読んでいたことは野村の本論の方で一言触れられているが、「かけらもない」、ですか。

関曠野氏は可能なかぎりベンヤミンとマルクスを切断したいのだろうか。
ローザを読んでいて、「マルクスの影響はかけらもない」などということがどうして言えるのだろう。ドイツ社会民主党にしても、スパルタクス団にしても、あるいはレーニンとロシア革命にしても、マルクスと無関係ではありえないのだし、それらを介してベンヤミンの思想に媒介的にではあっても、あるいはまた、それがポジティブなものであるか、ネガティブなものであるかということはあっても、いずれにしてもマルクスの影響があることは否定できないことだろう。

この解説は、この本の解説なのだろうか。
激しく疑問を感じる。

とりあえず、読了直後の感想として。



■野村修 『ベンヤミンの生涯』 平凡社ライブラリー1993年刊
カレンダー
06 2020/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[10/15 Nobuo Hunaki]
[06/13 ETCマンツーマン英会話]
[11/29 michiyoshi]
[07/08 みずほ]
[06/29 エコミ]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
takagi toshiyuki
性別:
男性
自己紹介:
いまはぼつぼつベンヤミンの本を中心に読んでいます。
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
アクセス解析
フリーエリア
忍者ブログ [PR]