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 「芸術はいかなる個々の作品においても、人間から注目されることを前提としてはいない。じじつ、いかなる詩も読者に、いかなる美術品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではない。」(ベンヤミン「翻訳者の課題」 岩波文庫『暴力批判論』p69)
 
 ベンヤミンは「認識批判序説」で、真理を美しいといい、それはエロスにとって美しいとする。しかしその真理は認識の対象ではなく、叙述として現れるのであり、体系的な哲学的言辞とは無縁なところに存在する。真理は、説明されるものでも、捉えられるものでもない。ただそこにある。「体系は、理念世界自体の状態から霊感を受けてその形をなしてくる場合にのみ、妥当性をもつ」(前掲書 p117)

 「真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である。だから、真理にふさわしい態度は、認識における志向性ではなくて、真理へはいり込んで消滅することだ。真理とは意図の死にほかならぬ。ヴェールをかぶったザイスの女神像が物語るのは、まさしくそのことであって、真理に問いかけようと考えたものは、ぞうのヴェールが落ちるとともに崩れ折れる。」(「認識批判的序説」 前掲書p122)
 
「経験によって規定されうるような志向としてではなく、この経験をまず刻印する力として、真理は存立している。あらゆる現象性から脱却した存在にのみこの力は所属するが、そういう存在こそは名という存在である。これが諸理念の所与性を規定する。しかし理念は、何らかの太古の言語の中に与えられているというよりも、むしろ、語が認識し意味づけることには迷いこまず、その命名の高貴さを保つ根源的な聴取の中にこそ、与えられている。」(同上 p122)

 「ある個体についてなりたつすべての述語は、その個体概念としての主語のうちにすでに含まれている。『述語が主語にはらまれているように、』主語の持つ『完全な概念』は、ある個体について術定される一切を宿す」((熊野純彦『西洋哲学史 近代から現代へ』p63)。ライプニッツのモナド論について熊野はこう書いている。ベンヤミンも「認識批判序説」で少し不満気な口ぶりでモナド論に触れている。

 主語に宿しているものを述語として表すとして、それはひとつの分割なのだろう。しかしベンヤミンにとって真理は、あるいは諸理念は分割不可能なものとしてある。それはただ「その内部にはいりこみ、消滅する」ことにおいてのみ現れてくるものなのだろうか。
 彼は「叙述」といった。けれども、それは人間の叙述ではないかもしれない。その「名」はこの世ならぬものかもしれない。
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いまはぼつぼつベンヤミンの本を中心に読んでいます。
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