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since 2007 10 24  読み書き、見聞き、したもの。など。 twitter https://twitter.com/takagi_toshi
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 ベンヤミンは、はっきりと彼自身の視界のうちに具体的な事象を捉えているのだが、その事象そのものについて直接には言及せず、メタフォリックに語る。語られた言葉自身が難解な場合もあるが、語られていることじたいはわかるが、いったい何について述べているのか分からないというような場合も少なくない。

なかでも歴史哲学テーゼの難解さは相当なものだ。

いったいあの『新しい天使』のメタファーは何だ。

野村修訳のこのテクストではいっかんして「歴史的唯物論」という言葉が使われているが、これはいわゆる「史的唯物論」と同じだろうか? わざわざすでに訳語として確定しているように思える言葉と違う訳語を当てたのであれば、どういう意図だったのだろうか。それとも原語が異なるのだろうか。

野村修の『ベンヤミンの生涯』を読んでいるが、『複製技術時代の芸術』などを収めた2巻に進む前に、今村仁司の『歴史哲学テーゼを読む』を読もうと思う。
 
■ベンヤミン『ベンヤミン著作集 第1巻』。晶文社。
暴力批判論       1921年8月
運命と性格       1919年ころ

知識人の政治化    1930年5月
ドイツ・ファシズムの理論 1930年7月
左翼メランコリー    1931年2月
 ※上記の3つはヒルファーディングの月刊誌『社会』に掲載。

破壊的性格      1931年11月
経験と貧困       1933年12月

歴史哲学テーゼ   1940年 ほぼ絶筆にあたる

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野村修の『ベンヤミンの生涯』を読み始めている。最初の40ページほどのところまで。その覚書。

1) ショーレムのベンヤミンに対する言葉

1919年。「当時ベンヤミンは政治活動を拒否していた。ハンガリアのレーテ共和国についても、彼の心を動かしたのはブロッホの親友ルカーチの運命だけだった」(p27)
これは正しいか?事実か? 何かバイアスがかかっていそうな気がする。
もしそうであるならばドイツ革命の進行についてベンヤミンはどのような立場だったのか。
ショーレムの言う「政治活動の拒否」が何によるのか。またどういう内容なのか。要検討。ただ、少なくともショーレムの言が正しいとしても、「政治活動の拒否」であって、政治の拒否とは述べていない。ベンヤミンは極めて政治的であるとも思える。

2) クレーの「天使」にクレー自身がこめた何か、と、ベンヤミンがそこに読み取ったこととの検討が35ページあたりでなされているが、これは意味のある検討なのだろうか。
問題はベンヤミンがそこに見たことであって、クレーの画想との比較ではないのではないか。ましてやそれが整合するかどうかなどいったい何の意味があるというのだろうか。

3) ショーレムの兄はドイツ共産党左派(と野村は表現しているが)の中心人物になるらしいが、15年にはすでにスパルタクス・ブントのメンバーだったようだ。
このとき、ベンヤミンは23歳で、前年の14年には自由学生連合のベルリンの議長となっている。自由学生連合とスパルタクス・ブント、あるいはベンヤミンとの組織的、思想的関係はどこかで捉えておかなくてはいけない。間違いなくベンヤミンは例えばスパルタクス・ブントの機関紙などを読んでいたと思う。ローザ・ルクセンブルグの著作は読んでいたようだ。であるとすれば、そのあたりを媒介にレーニンの主張も当然知っていたと思われるし、「第二インターの崩壊」などは直接、読んでいたのではないだろうか? そうしたことを知らずにベルリンという最大都市の「自由学生連合」の議長職は務まらないように思える。

【追記】
レーニンは『第二インタナショナルの崩壊』は直接にカウツキーを軸にしたドイツ社会民主党批判。第一次大戦に最して、祖国防衛に走ったドイツ社会民主党などの勢力に対して、祖国の敗北を、という立場を対置した。第二インターナショナルの支部でもある各国の社会民主主義勢力がのきなみ祖国防衛・祖国擁護に転換したとき、インターナショナルがかかげていたプロレタリア国際主義は崩壊した。1914年に発表。
野村修がまとめている年表(『ベンヤミンの生涯』の各章の冒頭におかれている)をみると、1915年に、それまでベンヤミンが強く関与していた自由学校共同体を主導するヴィネケンと決裂している。原因は、ヴィネケンが第一次大戦に対して、祖国ドイツの防衛を叫び始めたからのようだ。
そうであれば、ベンヤミンは、一時期は「ベンヤミンの師」(野村)とも言われた人物との関係を「第一次大戦とドイツ国家のありかた」とでもいうべき極めて政治的な問題で断ち切ったことになる。
少なくとも『暴力批判論』を書く1921年くらいまでの時期、ベンヤミンは極めて左派的なスタンスをとっていることになる。

(ちなみにローザについてのレーニンのまとまった言及は「ユニウスの小冊子について」がある)


  ベンヤミン。政治を文学的に語りすぎるか。


「破壊的性格」(1931年11月)という小論がある。破壊が足りないと叫んだのは、レーニンだった。「第二インターナショナルの崩壊」だったか。
ベンヤミンの言葉の中にその時のレーニンの叫びが遠くに反響しているように思えてならない。1920年代から30年代初頭のベンヤミンにとって、マルクスの思想を、その具体的な像をレーニンとその実践に見出していたのだろうか。
それにしても、政治を文学的に語るベンヤミンを、さらに文学的に理解しようとするのはやめたほうがいいかもしれない。


「左翼メランコリー」(1931年2月)。
エーリッヒ・ケストナーなどの知識人に対する痛烈な皮肉。
この時、ベンヤミンはマルクス的な立場から問題を立てているように思えるが、その批判の筆致を見ていると、ケストナーなどの立場が、根本的にはファシズムの社会的基盤に近接しているように読める。プロレタリアートでも、正真正銘のブルジョアジーでもない、没落する社会的中間層が大衆運動としてのファシズムの基盤であった。イタリア・ファシズムが旧中間層を基盤にしているのに対して、ドイツ・ファシズムは新中間層を基盤にしていると言われている。
ケストナー批判のその内容は、むしろファシズムの社会的基盤と、そこから生み出される一種の空気、気分のようなものを活写しているように思える。


【付記】
ファシズムの社会的基盤に仮に近接したところにケストナーが本当に立っていたとして、それがケストナーがファシスト的な思想の持ち主だったということを述べているのではない。
イタリアにしろドイツにしろ、その社会的中間層をどのような政治勢力が獲得するのか。それが極めて重大な政治的課題だったはずだ。1931年のこの時代、ナチスと同時にドイツ共産党も台頭してくる。このとき、ドイツの未来はいまだ決してはいない。

 「ドイツファシズムの理論」。1931年7月、ヒルファーディング編集の月刊誌『社会』に掲載。

ドイツ革命は押しとどめられ、スパルタクス団のカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルグは殺されてしまった。そして中途半端なワイマール共和国という形に固定された。そしてまた戦争が迫っている。

31年。30年にはナチスが国政選挙で第2党に躍り出て、33年1月にヒトラーが首相に就任している。そうした歴史の流れの分岐点にたって、ベンヤミンが書いている。
第一次世界大戦があり、ロシア革命があった。第一世界大戦後の危機から相対的安定期へいったんは移行するが、29年、ウォール街の株式大暴落から世界恐慌へ突入。さらに33年には世界全体がブロック化していく。それは直接に世界戦争への転換点でもあった。

こうして戦争に向かって軋みをあげて歴史がねじれていくその劈頭とも言うべき時期だ。日本では柳条湖事件があり、中国侵略への一つのステップを踏み出す。

まだナチスという言葉は登場しない。イタリアのムッソリーニが先行し、ファシズムという言葉はあった。
この時代、ファシズムは、社会主義の一変種だと考えている人々も少なくなかった時代かもしれない。もうそれは終わっているかもしれない。

ベンヤミンの文章からは、戦争が迫っている匂いがする。
しかしそれに対して、ベンヤミンは次のように述べている。

「この子どもたちは、次の戦争を魔術のなだれ込みと考えることを拒否する瞬間に、その冷静さを証拠立てるだろう。むしろ彼らは、戦争のなかに日常の像を発見し、ほかならぬこの発見を糸口に、戦争の内乱への転化をなしとげるだろう――あの暗黒の古い魔法に対抗しうる唯一のものであるマルクシズムの手品を、展開することによって。」(p79)

 
戦争の内乱への転化…
これはマルクスの思想に直接に根ざすものではなく、レーニンに直接的な淵源を持つ言葉だ。
ベンヤミンはマルクスの思想に影響を受けたとか受けていないとかのレベルではなく、はっきりとロシア革命とレーニンの思想的影響をうけている。端的に言ってプロレタリア革命を志向している。この点についての議論があまりにも簡単に済ませられていないか。彼は「帝国主義戦争を内乱へ!」と言っている。これはなかなか公然と打ち出すためには覚悟が必要な命題だろう。

ベンヤミンとマルクスの思想とのかかわりについては、これから考えていこうとは思う。しかし、今日もベンヤミンの思想に惹かれ、その現代的意義を考えていく人たちは少なくない。であれば、そこに明示的に含まれているベンヤミンのマルクス主義についてもその意味を考えなくてはならないだろう。しかも、それははっきりとレーニンの存在を含めて検討しなくてはならないはずだ。
ベンヤミンとマルクスの関係は折にふれて議論が立てられているようだが、レーニンとのかかわりはどうなのだろう。これをただの政治的外皮とすることは難しいのではないか。もっと彼の思想に強くレーニンの名前と存在は刻み込まれているのではないか。「暴力批判論」の内容にしてもマルクスだけではなく、ローザ・ルクセンブルグやレーニンの存在をはっきりと措定したほうが納得出来るように思う。まぁもっともローザはロシア革命について批判的な姿勢を示してはいるが。



「ドイツファシズムの理論」(ベンヤミン著作集1巻)

  「生命のトウトサというドグマ」。ベンヤミンが「暴力批判論」の中で言う。それはユダヤ思想の言葉だろうか。時代の言葉だろうか。

ユダヤ思想のことはわからない。けれども、神が屹立するものとして存在するのであれば、生命がアプリオリの価値を持つわけではないということなのかもしれない。
あるいは、第一次世界大戦からロシア革命へ。そしてドイツ革命とスパルタクス(ドイツ共産党)のいったんの敗北。その湧き立つような時代は、近代的な、あるいは自然法思想的な「生命の尊さ」を一つのドグマとして認識させたのだろうか。


暴力批判論の中でベンヤミンは、最終的に暴力を定義しなかったように思う。それは果たして自明なことなのだろうか。神的な暴力と神話的な暴力の対比。けれども、その暴力とはいったいなんだというのだろうか。
クラウゼビッツは戦争について「政治の別の手段による継続」と定義した。レーニンもそれを基本的に継承している。けれども、暴力は戦争を含むが、戦争論はそのまま暴力論ではないだろう。だから戦争論に解消されない暴力論もまた存在する。

ベンヤミンンの暴力批判は、国家の暴力とプロレタリア革命の暴力(ゼネスト論として提起されているが)という視角を軸にイメージされていると思うが、例えば、ある人間が自分の意思を対立的に相手に押し付けるとき、それは「暴力」とよばれるものとなるのだろうか。



それにしても、ベンヤミンは1918年から21年にかけて、何をしていたのだろう。ドイツの激動とどのようなかかわりを持っていたのだろう。
私の1920年代にたいするイメージを一新しなくてはいけないような気がしてきた。




それにしても。
ベンヤミンはこれほど激しい思想の持ち主だったのだろうか?私の読み方が間違っているのだろうか?
彼の暴力論は、すさまじく、それこそ暴力的なものに思える。端的に言って「純粋暴力」の称揚というべきものに読める。ベンヤミンを読んでいてソレルの暴力論に遭遇するとは思わなかった。暴力の形而上学者とでもいうべきソレル。


「暴力批判論」は、1921年に書かれた。
1917年ロシア革命。その巨大な波及力は何よりもまずドイツに現れた。無論、ロシア革命に影響されてドイツ革命があったというだけではない。ドイツにはドイツに内在する課題があったからこそ革命が起きる。
しかしそれは、スパルタクス・ブントからドイツ共産党の敗北の時代だ。

1919年1月。ドイツ社民党左派であったスパルタクス・ブントがドイツ共産党を結成。1月蜂起とよばれるたたかいが起こったが、必ずしも組織された蜂起ではなかった。そしてカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグがドイツ義勇軍(フライコール)に殺害される。
その敗北後、ドイツ共産党はコミンテルンの指導の下、武装蜂起路線をとる。21年には武装蜂起をし、数日間ではあるが、都市を占拠している。ドイツ革命はいまだ決着がついたわけではなかった。


以下、ウィキペディアからの引用。(ドイツ共産党の項)

出来たばかりの共産党は創立大会(1919年)で国民議会選挙への棄権を圧倒的多数で可決し、暴力的革命の道を選び始めた。革命的オプロイテ(de)などの左派勢力の一部は棄権の取り消し、スパルタクス団の名称削除を要求したが入れられなかったために合流しなかった。この左派勢力の結集を見て、独立社会民主党派の閣僚は内閣から辞職し独自路線を歩もうとした。しかし、独立社会民主党派の一人でベルリンの警視総監エミール・アイヒホルン(de)は辞職せずその地位に留まろうとした。社会民主党の政府は1月4日にアイヒホルンを罷免したが、アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城した。1月5日、共産党とオプロイテはアイヒホルンの罷免を不当であるとして大規模なデモ活動を行った。この成功により、リープクネヒトや独立社会民主党党首ゲオルク・レーデブールは革命の時機が到来したと判断し、社会民主党政府打倒を目的とする革命委員会を設立した。

(詳細は「スパルタクス団蜂起」を参照)

1月6日、革命委員会は大規模なデモとゼネストを決行した。しかし革命委員会は終日協議を続けるのみであったため、デモは暴動に至ることなく自然解散した。しかし社会民主党機関紙を発行する出版社の建物が占拠されるなど、依然緊張は続いていた。社会民主党政府はグスタフ・ノスケに最高指揮権を与え、ドイツ義勇軍(フライコール)による弾圧を決意した。1月8日、政府は共産党派に対する攻撃を開始し、1月12日に勝負は決した。以後、義勇軍兵士による私刑の形で蜂起参加者達が次々に処刑され、1月15日にはリープクネヒト、ルクセンブルクが惨殺された。
この蜂起はスパルタクス団やオプロイテの総意で行われたものではなく、ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対していた。しかし両組織の構成員が蜂起に多数参加しており、両組織は壊滅状態となった。また、この鎮圧にあたって生まれた義勇軍は以後のドイツ政治に大きな影響を与えていくことになる。

コミンテルン指揮下 [編集]

蜂起失敗後、パウル・レヴィ(de)の指導の下で武力闘争路線を修正し、議会選挙に参加した。しかし党内には左派過激派が増加し、レヴィの路線に反発する者が多かった。1920年10月、独立社会民主党が分裂し、左派は共産党と合流することでコミンテルンに加盟した。しかしコミンテルンはドイツ革命の実現を要求し、ラーコシ・マーチャーシュを派遣してコミンテルンの方針への絶対服従を要求した。レヴィは反発したが、結局指導者の地位から降りざるを得なくなった。新たな指導者にはハインリヒ・ブランドラー(de)がついた。
コミンテルンはハンガリー革命の指導者クン・ベーラを派遣し、ドイツ共産党に武装蜂起路線をとらせた。1921年にはドイツ中部のマンスフェルトで大規模な蜂起を行い、街を数日間占拠したが、国防軍の手で鎮圧された(de:Märzkämpfe in Mitteldeutschland)。やがてドイツ政府との協調に転換した第3回コミンテルン大会で、この蜂起は厳しく批判されたが、同様に蜂起を批判したレヴィは党から除名されている。コミンテルンの路線転換により、しばらくの間共産党は過激活動を停止した。
1923年の秋、コミンテルンの路線は再び変更され、再度ドイツ革命を目指すようになった。ブランドラーら共産党幹部がザクセン州やテューリンゲン州の内閣に入閣し、ここを地盤としてドイツ全土に革命を広めようとした。しかし国防軍に鎮圧され、革命は失敗に終わった。またこの間にハンブルクで共産党の蜂起が起こっているが、これも数日で鎮圧された。この失敗によりフランドラーは解任され、以降ルート・フィッシャー(de)、アルカディ・マズロー(de)らの後に労働者出身のエルンスト・テールマンが指導者となった。

シャイデマンやエーベルトらのドイツ社民党によるドイツ革命の簒奪に対して、スパルタクス団や独立社民党を一つの組織的な軸にしていた労働者や兵士の評議会があり、武装を解除していないという、革命がまだその最終決着がつけられていない状況の中で、ベンヤミンの「暴力批判」論は書かれた。ローザ・ルクセンブルグの思想ともどこかで通じるようなベンヤミンの暴力論(マッセンストライキ論とも読めるし、プロレタリア独裁論とも読める)は、その労働者や兵士たちへの理論的なアプローチであり、理論的な革命への参加であったのだろうか。それは国家権力に対する抵抗としての暴力でも、ブランキのような精鋭による武装蜂起でもなく、全民衆的な規模での、国家そのものを死滅させるものとしての暴力である。

ベンヤミンは「複製芸術論」やパサージュ論などから、「文人」のように思われてきているように思うし、私もそう思っていた。
もう一度、「暴力批判論」を読もうと思う。本当にここまで「過激」なベンヤミン像は正しいのだろうか。その像はめまいがするほど激しい。



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いまはぼつぼつベンヤミンの本を中心に読んでいます。
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