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それにしても。
ベンヤミンはこれほど激しい思想の持ち主だったのだろうか?私の読み方が間違っているのだろうか?
彼の暴力論は、すさまじく、それこそ暴力的なものに思える。端的に言って「純粋暴力」の称揚というべきものに読める。ベンヤミンを読んでいてソレルの暴力論に遭遇するとは思わなかった。暴力の形而上学者とでもいうべきソレル。


「暴力批判論」は、1921年に書かれた。
1917年ロシア革命。その巨大な波及力は何よりもまずドイツに現れた。無論、ロシア革命に影響されてドイツ革命があったというだけではない。ドイツにはドイツに内在する課題があったからこそ革命が起きる。
しかしそれは、スパルタクス・ブントからドイツ共産党の敗北の時代だ。

1919年1月。ドイツ社民党左派であったスパルタクス・ブントがドイツ共産党を結成。1月蜂起とよばれるたたかいが起こったが、必ずしも組織された蜂起ではなかった。そしてカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグがドイツ義勇軍(フライコール)に殺害される。
その敗北後、ドイツ共産党はコミンテルンの指導の下、武装蜂起路線をとる。21年には武装蜂起をし、数日間ではあるが、都市を占拠している。ドイツ革命はいまだ決着がついたわけではなかった。


以下、ウィキペディアからの引用。(ドイツ共産党の項)

出来たばかりの共産党は創立大会(1919年)で国民議会選挙への棄権を圧倒的多数で可決し、暴力的革命の道を選び始めた。革命的オプロイテ(de)などの左派勢力の一部は棄権の取り消し、スパルタクス団の名称削除を要求したが入れられなかったために合流しなかった。この左派勢力の結集を見て、独立社会民主党派の閣僚は内閣から辞職し独自路線を歩もうとした。しかし、独立社会民主党派の一人でベルリンの警視総監エミール・アイヒホルン(de)は辞職せずその地位に留まろうとした。社会民主党の政府は1月4日にアイヒホルンを罷免したが、アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城した。1月5日、共産党とオプロイテはアイヒホルンの罷免を不当であるとして大規模なデモ活動を行った。この成功により、リープクネヒトや独立社会民主党党首ゲオルク・レーデブールは革命の時機が到来したと判断し、社会民主党政府打倒を目的とする革命委員会を設立した。

(詳細は「スパルタクス団蜂起」を参照)

1月6日、革命委員会は大規模なデモとゼネストを決行した。しかし革命委員会は終日協議を続けるのみであったため、デモは暴動に至ることなく自然解散した。しかし社会民主党機関紙を発行する出版社の建物が占拠されるなど、依然緊張は続いていた。社会民主党政府はグスタフ・ノスケに最高指揮権を与え、ドイツ義勇軍(フライコール)による弾圧を決意した。1月8日、政府は共産党派に対する攻撃を開始し、1月12日に勝負は決した。以後、義勇軍兵士による私刑の形で蜂起参加者達が次々に処刑され、1月15日にはリープクネヒト、ルクセンブルクが惨殺された。
この蜂起はスパルタクス団やオプロイテの総意で行われたものではなく、ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対していた。しかし両組織の構成員が蜂起に多数参加しており、両組織は壊滅状態となった。また、この鎮圧にあたって生まれた義勇軍は以後のドイツ政治に大きな影響を与えていくことになる。

コミンテルン指揮下 [編集]

蜂起失敗後、パウル・レヴィ(de)の指導の下で武力闘争路線を修正し、議会選挙に参加した。しかし党内には左派過激派が増加し、レヴィの路線に反発する者が多かった。1920年10月、独立社会民主党が分裂し、左派は共産党と合流することでコミンテルンに加盟した。しかしコミンテルンはドイツ革命の実現を要求し、ラーコシ・マーチャーシュを派遣してコミンテルンの方針への絶対服従を要求した。レヴィは反発したが、結局指導者の地位から降りざるを得なくなった。新たな指導者にはハインリヒ・ブランドラー(de)がついた。
コミンテルンはハンガリー革命の指導者クン・ベーラを派遣し、ドイツ共産党に武装蜂起路線をとらせた。1921年にはドイツ中部のマンスフェルトで大規模な蜂起を行い、街を数日間占拠したが、国防軍の手で鎮圧された(de:Märzkämpfe in Mitteldeutschland)。やがてドイツ政府との協調に転換した第3回コミンテルン大会で、この蜂起は厳しく批判されたが、同様に蜂起を批判したレヴィは党から除名されている。コミンテルンの路線転換により、しばらくの間共産党は過激活動を停止した。
1923年の秋、コミンテルンの路線は再び変更され、再度ドイツ革命を目指すようになった。ブランドラーら共産党幹部がザクセン州やテューリンゲン州の内閣に入閣し、ここを地盤としてドイツ全土に革命を広めようとした。しかし国防軍に鎮圧され、革命は失敗に終わった。またこの間にハンブルクで共産党の蜂起が起こっているが、これも数日で鎮圧された。この失敗によりフランドラーは解任され、以降ルート・フィッシャー(de)、アルカディ・マズロー(de)らの後に労働者出身のエルンスト・テールマンが指導者となった。

シャイデマンやエーベルトらのドイツ社民党によるドイツ革命の簒奪に対して、スパルタクス団や独立社民党を一つの組織的な軸にしていた労働者や兵士の評議会があり、武装を解除していないという、革命がまだその最終決着がつけられていない状況の中で、ベンヤミンの「暴力批判」論は書かれた。ローザ・ルクセンブルグの思想ともどこかで通じるようなベンヤミンの暴力論(マッセンストライキ論とも読めるし、プロレタリア独裁論とも読める)は、その労働者や兵士たちへの理論的なアプローチであり、理論的な革命への参加であったのだろうか。それは国家権力に対する抵抗としての暴力でも、ブランキのような精鋭による武装蜂起でもなく、全民衆的な規模での、国家そのものを死滅させるものとしての暴力である。

ベンヤミンは「複製芸術論」やパサージュ論などから、「文人」のように思われてきているように思うし、私もそう思っていた。
もう一度、「暴力批判論」を読もうと思う。本当にここまで「過激」なベンヤミン像は正しいのだろうか。その像はめまいがするほど激しい。



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