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『ナチズム下の子どもたち』(エーリカ・マン 田代尚弘訳 法政大学出版)
訳者解題より。以下引用。

 訳者解題
 Ⅲナチズムの教育について
1ナチズムの教育学的テーゼ

(ここではボイムラー、クリークについて触れているが、ボイムラーは生物学的人種的な基礎づけを行っており、クリークは共同体に着目する。)
 クリークは1933年にフランクフルト大学教授、1934年にはハイデルベルク大学哲学・教育学の教授になったが、彼の教育学研究の出発点は「共同体」(ゲマインシャフト)への着目であった。彼は「共同体」を人間生活の高度で現実的な組織体とみなした。彼の根本的な思想は、部分的にロマン主義と理想主義を継承しており、彼にとって教育自体は共同体の「根源的な機能」ととらえられている。クリークは教育の概念を拡大して、教育を恒常的な社会機能と考えた。つまり、いつの時代も教育がなされてきたが、その基底には共同体の作用があり、教育は共同体の中で無意識的かつ無意図的に、絶えず「機能的に」遂行されてきたとみるのである。
 クリークは、共同体の状況的な諸価値によって「人間形成」の目標が決定され、その目標に即した意図的、志向的な教育によって、はじめて「人間形成」が達成されると論じた。彼は当初、ナチズムの教育イデオロギーとして自らの教育学理論を構築したわけではなかったが、ドイツ社会における具体的な教育目標を、ドイツ人にドイツ性を教育すること、つまり「ドイツ的なるもの」(永遠に闘争的なるもの)をドイツ人にみつけ出すことであるとし、ヒトラーの「指導者原理」を肯定した。そのことでクリークは、国家社会主義の指導的教育学者になったのである。したがって彼は国家社会主義の犯罪を黙認しなければならず、自分の理論に人種イデオロギーを取り込み、教育を全体主義の従順な装置にすることで、第三帝国に共同責任を持たざるを得なかったのである。
 もちろん彼の教育学理論も人種概念に規定されているが、その人種概念は根源において生物学的というよりも、むしろ精神的な色合いが強い。クリークによれば、民族はそれぞれ、当然そのバックボーンとして所属の人種を持ち、この人種の生活様式、生活方向および生活規則が民族全体と民族の生成を規定する。その際、民族主義的共同体の中では、人種の特徴が選別され、質的に強化され、悪弊から解放され、統制されなければならない。このようにクリークは人種を、民族全体とその民族同胞の生活を内的に安定させる要素、各人を共同体の目標や意味方向へ秩序づける要素と考えたのである。また彼は、民族に対する決定的な外部安定要素として故郷、風土、生活圏、母なる大地を挙げ、これを取り込んだ新たな「自然科学」と民族主義的・政治的人間学の神話的、宗教的、形而上学的観念とが結合されるべきであると考えた(Ernst Krieck, Volkish-politishe Anthropologie, Bandel. 1938.S.761f)。
2身体教育の意味

 エーリカも指摘しているように、ナチズム的教育の最大の特徴は身体鍛錬の教育であり、これがすべてに優先した。ナチ体制においては子どもは過酷なスポーツ活動を課され、「身体鍛錬義務」が学校はもとより「ヒトラー青少年団」の側からも、たとえば「君の身体は国家のものである」とか「君は健康である義務を負っている」というスローガンでプロパガンダされた。
(p251 訳者解題)
スポーツ自体は人間の発達にとってもちろん重要な活動であるが、ナチにおけるスポーツ活動のねらいは、身体の習慣化によって、青少年の意志と身体との合一を計り、青少年の「自己」に、擬似的な自由としてナチ的な世界観を刻みつけることであったといえよう。
 フーコーの言葉を借用すれば、ナチズムにおけるスポーツ活動のねらいは、「従順な身体」の形成である。スポーツによって体力の恒常的な束縛が企てられ、権力に従順な身体を作り出すことで、子どもの身体は権力装置の中に呑み込まれ、身体は政治的客体とされる。身体的な「規律・訓練」は、身体の経済的効果を増加し、服従という政治的関係において身体の力を減少させる。言い換えれば、「規律・服従」は一方で、身体の力を個人の「素質」や「能力」に転換し、それを増強しようとするが、他方で「体力」とそれから生じる「強さ」を厳しい服従関係に転換するものである。この意味でスポーツによる「規律・訓練」の強制は、素質と支配のあいだの拘束関係を、身体において確立するものである(フーコー、『監獄の誕生』新潮社、1996年 p143-144)。
 ナチズムの身体訓練はまさに、この文脈において身体を支配したが、それは当然ながら身体を越え、個人の精神的な空間的帰属性、つまり個人と共同体の関係性を規定することになる。「規律・訓練がおこなう最初の処置は、空間への各個人の配分」である(フーコー、田村訳、前掲書、p147)。フーコーによれば、「規律・訓練」は身体を配分して、ある諸関係の網目の中にその身体を定位させ、こうした位置決定によって、「規律・訓練」はそれぞれの身体を個別化し、そうやって「権力は、身体=兵器、身体=道具、身体=機械という一種の複合をつくりあげ、身体は生産装置への強制的関係をもたされる」(フーコー、田村訳、前掲書、p157)。またエーリカが述べたように、子どもに課せられる数多くの「スポーツ試験」は、身体の政治化を確実にする手段でもあり、それは青少年の階層秩序的な権力を生み出すことも目的としていた。まさしくスポーツの試験によって子どもたちのあいだで権力の分配が行われ、彼らの階層的序列化が作り出されたのである。
 このようにみれば、ナチの身体訓練を中心とした教育組織は身体を習慣化することで、本質的に青少年お衝動や関心を「操作する」制度的監視装置であった。青少年の身体的エネルギーや興味・関心は、スポーツ活動を通してナチの目標を達成するために利用差され、表面的に促進され、解放されたのである。
(p254 訳者解題)
 1億総活躍、1億総スポーツ化、今日の教育勅語の肯定などの文脈の中で一度、整理しておくこと。上記の文章は「1億総スポーツ化」と重なる。またあたかも日本固有の教育を追求するような動きと重なる。



 
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 自由と平和のための京都大学有志の会の声明書に賛同した。
 私の祖父は2度召集され、中国戦線に7年いた。最後は曹長だったらしい。
 一体何をしていたのだろう。曹長は下士官の最高位だ。それなりに「軍功」をたてたのだろうか。もしそうだとしたら、その手柄はいったいどういうものだったのだろうか。

 もう詳しいことはわからない。もっといろいろと聞けばよかったのだろうか。
 祖父や祖母とは離れて暮らしていた。年に一度、帰省した時に会うくらいだった。戦時中のことを、祖父はほとんど語らなかった。ときどき酔っ払って軍歌を歌っていたことくらいが祖父と戦争を結びつける私の記憶だ。

 生命は生命から生まれる。生命からしか生まれ出ることはない。それは長い一つの連なりであり、そのどこかが絶たれれば、そこから先の連なりは失われてしまう。
 私の生命も生命から生まれでたけれども、同時に、途中で絶たれた生命や生まれ出ることができなかった生命がはりついているように感じることがある。彼らや彼女らがいま、じっとこちらを見つめている気がすることがある。

 祖父が中国で誰かを殺したり、傷つけたりしたのかどうか、もうわからない。そうしていないことを望みはするが、だからといって歴史が変わるわけでもない。日本軍の一員として、中国の地に7年間いたこと、それ相応に昇進をしていったこと。それが事実だ。
 立場は逆だったのかもしれない。私が生まれることができず、ここにはいなかったかもしれない。彼らや彼女らが生まれ、いま生きていることもありえたはずのことだ。
 私が今ここにいること自体に歴史は刻み込まれている。一つの存在が実現するためにいくつもの可能性を潰えさせてしまうような、そういう時代が刻み込まれてここにいる。
 きっといずれどこかで清算しなければいけない債務なのだと思う。それは70年たってもまだ何も清算されていない。日本が侵略した。そういう歴史を断ち切れないまま、ここまで来てしまった。

 平和とか高度成長とか経済的繁栄とか言われ、生活してきたが、その起点は朝鮮戦争だった。沖縄から米軍が出撃し、爆撃し、人びとを殺戮してきた。沖縄の人びとに、戦車にこびり付いた肉片を洗い落とすような仕事をさせてきた。
 戦後憲法は9条とともに1条で天皇を戴いている。そして9条はある面で日米安保と一体でもあった。つまりは沖縄の切り捨てと軍事基地化と一体でもあった。そのため戦後の日本は戦争から逃れられてきたかのような印象を生み出してきた。そうした構造が、沖縄を除外し、少し前まで「日本人」だった在日朝鮮人を排除したところで決定されてきた。
 安保法案は、そうした戦後の隠されていた構造をむき出しにするものにも見える。それは矛盾にみちた戦後の構造を、日本国内だけではなく、朝鮮・中国・アジアとの関係でもあらわにし、宙吊りにされ、押し込められてきたものを洗いざらいぶちまけることになるように思える。本当に戦争の決算をしなければいけない時がやってきたとも思える。
 だから、もし仮に法案がとおっても、もしそれに対して裁判所が合憲だと言っても、もし仮に日本国内で、賛成を叫ぶ大きな声が溢れても、認められないものは認められない。


 ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』から。
Ⅱ 過去という本には時代ごとに新たな索引が附され、索引は過去の解放を指示する。かつての諸世代とぼくらの世代とのあいだには密かな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、〈かすか〉ながらもメシア的な能力が附与されているが、過去はこの能力に期待している。この期待にはなまなかにはこたえられぬ。歴史的唯物論者は、そのことをよく知っている。
Ⅸ かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、休みなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それを彼の鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方でかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ。
(野村修訳 ベンヤミン著作集より)

京都大学の有志の会の声明書

声明書

戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。
戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。
海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
生きる場所と考える自由を守り、創るために、
私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。
自由と平和のための京大有志の会





わたしの『やめて』
くにと くにの けんかを せんそうと いいます
せんそうは 「ぼくが ころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじゃない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじゃない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじゃない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじゃない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじゃない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じゃまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしは おおきなこえで 「やめて」 というんだ
じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい






Manifesto
A war begins under the name of self-defense.
A war benefits the weapon industry.
A war spins out of control immediately after it begins.
A war is more difficult to finish than to begin. 
A war hurts not only soldiers, but also the elderly and children. 
A war damages the body, and goes deep inside the heart.
The human spirit is not to be manipulated.
Human life is not a means to somebody else’s end.
The sea should not be swamped by military bases. 
The sky should not be defiled with the roars of fighter planes.
We wish to live in a special country that is proud of its wisdom, rather than a ‘normal’ country that esteems military contribution.
Scholarship is not a weapon of war.
Scholarship is not a tool of business.
Scholarship is not to serve power.
In order to protect and create a place to live and the freedom to think, we must wholeheartedly strike the conceited government.
Kyoto University Campaign for Freedom and Peace
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いまはぼつぼつベンヤミンの本を中心に読んでいます。
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