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since 2007 10 24  読み書き、見聞き、したもの。など。 twitter https://twitter.com/takagi_toshi
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 嘉田知事会見について。

 理念として次のようなことを述べた。

 「いま日本では将来への不安や、政治への失望、不審が渦巻いています。この不安を安心に、不審を信頼に、失望を希望に変えなければいけません。私たちは国民の皆さんの、いまのままでは選ぶ政党がない。新しい極をつくります。名前は日本未来の党。このままでは私たちは国としての品格を失ってしまいます。世界は私たちを見ております。福島は終わっていません。確実に原発から卒業しなくてはなりません。」として「福島への愛」を語ったうえで、「同時に、世界へ希望を発信していかなくてはならないと思います」、「国民の皆さんの政治への信頼を取り戻すためであります」と述べる。

 はたして政策的に不安を安心にすることなどできるのだろうか。
 政治への失望、不審は信頼や希望に変えるべきことなのだろうか。選ぶべき政党がないという現実は、それほど否定されるべきことなのだろうか。
 ましてやこの国が品格を持っていたことなどあるのだろうか。あるとしてその品格というのはいったい何に依って立つのだろうか。そもそも国の品格というのはなんだろう。国が品格などを語り始めるとき、それはむしろろくでもないことになるのではないか。

 嘉田氏に「メルケルになってください」という声がどこかにあった。EUのもと例えばギリシャやスペインではむしろ社会的な矛盾が激化している。
 福島原発による被曝、特に内部被曝を全面的に捉えるならば、必ず広島・長崎の封印されてきた内部被曝の問題に対することになる。それは敗戦直後の米軍によるプレスコードによる封印から、核政策に突き進む日本政府の思惑を含めて、戦後史を覆すことになる。そうした覚悟はあるだろうか。あるいは安保条約を破棄し、沖縄の米軍基地を全面撤去できるだろうか。国内原発の稼働を止めたとして、日本を「支えてきた」と言って過言ではないような日立、東芝、三菱などのメーカーの原発輸出を止めることができるだろうか。実効性の問題ではなく、その覚悟と立場はあるのだろうか。

 不安、失望、不審は、突き抜けられるべきものではないか。それは一票というものに封印されるものなのだろうか。
 不安や失望、不審が、根本的に今日の社会のありように根差しているのであるならば、それを糊塗することにいったいどういう意味があるだろうか。そのシステムごと根こそぎ変えてしまうほかないのではないか。チュニジアから始まった大きな動きは不安、失望、不審を突き抜ける道を、少なくともその一つの示唆をみせてくれたのではないか。

 私はむしろ、中途半端な希望や信頼などもたない方がずっといいと思う。不安、不審、失望。そうしたものの行きつく果てで、そのどろどろと渦巻くものが一挙に反転するような地点で、そこではじめて希望というものが現前する。人が行動するのは、そこに希望を託するからでは、必ずしもない。むしろ本当にこの社会を変えるような根源的な一つの行動は、絶望の行き着く果てで、絶望も枯れ果てるような地点で、それ以外に何もなしうることがないところから生まれるのではないだろうか。そうした人間の力はあるのだと思う。それをこの間、目の当たりにし、また感じてきたのだと思う。
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 11月7日、原子力規制委員会・田中委員長会見。

 はたして「科学者が同じデータをみたらある程度、議論は一定の方向に収束していく」はずだから専門家委員会の判断を待ちたい、と田中委員長は言っているが、果たしてそうか。そうならないのが原子力をめぐる議論だった。広島、長崎の被爆でも、水俣病でもチェルノブイリでも「科学者の議論」は収束していかなかったし、いかない。大きな政治的力学の中におかれた「科学者の議論」はおよそ収束しない。

 科学というものののあり方としてもその可能性がある。患者たちは目の前にいたにもかかわらず、水俣における胎児性水俣病は、その存在を医学者によって捉えられるのに「5年から8年」もの時間を要した(原田正純氏)。それは当時の医学の常識として胎盤は毒性のあるものは通さないと考えられていたからであり、その認識が目の前にいる患者を見えなくさせた。科学者、専門家が集まった議論したからといってはっきりした方向性に議論が収束していくわけでは必ずしもない。

 しかも原子力をめぐる議論は「科学的」ではない。「科学の言葉」と「科学者の肩書き」、その装いのもとで様々な利害にたったいわば政治的な議論がなされてきた。原子力ムラと称されるのはそうしたことだろう。

 おおよその予測はつく。
 専門家委員会が渡辺教授は否定していたが、再調査の要請をした。結論は来年になるだろうと日経新聞が報じている。
 関西電力の報告書は「活断層の可能性はない」と否定した。これに対して専門家委員会は「活断層である」と断定できるだろうか? 東北大学のある教授は「科学者には様々な立場があり、一致するのはなかなか難しいだろう」と言っていた。きっとそうなるような人選をしたんだろうと思う。実際、地質学者が「分からない」といい、一人だけ入った地形学者が「再調査の必要もない。活断層だ」と断定した。そうなることは予見されたことなのではないか、と思えてならない。そうした専門家委員会が「活断層の可能性は否定出来ない」とか「おそれがある」とかという判断を出したとして、関電の「活断層ではない」「活断層の恐れ」が並んだ時、「活断層だとは言い切れない」とか「可能性を否定できないが稼働を止めるという決断をするには根拠が乏しい」とか言い出すのではないか。

 しかも田中委員長は「稼働を差し止める法的権限はない」と言っていた。
 さらに何かの交渉時に保安院だったと思うが、その交渉の場に出てきた担当者が「安全審査基準は原子力の設置に関わるもので、稼働中の原子炉について定めたものではない」と言っていた。これが事務方のものの考え方というべきなのだろうか。

 だれも規制委員会に期待などはしない。委員の構成もそうだが、そもそも基本法が原子力発電推進となっているのだから、法にのっとって仕事をする立場の官僚や機関に推進に反する結論を期待などできない。
 だいたい大飯の破砕帯の問題は原子力発電所の局所的な問題ではない。それこそ文字通りの意味で「土台を揺るがす」問題だろう。もし今その断層がずれたら…。配管は引きちぎられるだろうし、建屋は崩れ落ちるだろう。格納容器や圧力容器だって傾いたりすることになるだろう。そのとき、無傷ではいられないだろう。そんな可能性を指摘されているのに、まず止めて、しかるのちに調査するという、それこそ「常識的な」判断を下すことすらしないで、何が規制委員会だと思う。
黄金と忘却にはさまれて
鎖につながれている――
夜。
黄金も忘却もこの夜に手をのばした。
夜はこの両者にされるままになった。

寄り添わせよ、
おまえもこの夜にいま寄り添わせよ、
朝ともども明けそめようとする言葉を――
星がその上をへめぐった言葉を、
海がその上におしよせた言葉を。

ひとりびとりに言葉を。
番犬の群れが背後から、
襲ったとき、
ひとりびとりに歌いかけられた言葉を――
ひとりびとりに歌いかけたあと、硬直した言葉を、

夜のそばに、そのそばに、
星がその上をへめぐった言葉を、海がその上におしよせた言葉を、
毒牙が
その綴りを貫いたとき、
血が凝固することなくいつまでも流れつづけた沈黙したまま語れずに終わった言葉を、
そのそばに。

沈黙したまま口に出されずに終わった言葉を、そのそばに。

虐待者たちの耳とつるみながら
やがて時間や時代をもひとり占めにする
他の言葉たちとは逆に、
この言葉は土壇場になって、

耳に鎖の音だけが聞こえる土壇場になって、
昔から黄金と忘却にとにはさまれて
この両者とひとつつらなりになってよこたわる
夜を証しだてる――

というのも、教えてくれ、
いったい言葉はどこで明けそめるというのか、
あふれでる涙の流域から立ち昇る朝日に
幾度も幾度も
そのみずみずしい苗をしめす夜のそばの他には?
(パウル・ツェラン 「沈黙からの証しだて」 訳・飯吉光夫)
 30年後に原発ゼロ?
 何を言ってるのだろう?それを真に受けていたら大間違いだ。ようするにそれまでゼロにしないといっているだけだ。

 だいたい民主党にゼロにするどういう理念と論理があるのか。

 30年にゼロにするというのなら、どうして「いま」しないのか。いったいどういう合理的な根拠があるのか。

 ゼロにするというならどうして大飯を再稼働したのか。再稼働したものをピーク時は過ぎたのに、どうして止めないのか。どうして「いま」とめないのか。

 ゼロにするということが、原発が危険だから、ということなのであれば(仮定)どうして、それを輸出するという政策がありえるのか。「原発危険なのになぁ、欲しいなら売るけどさ」なんて思っているのか。本音は全然違うが、建前はそういうことになるのだろう。それは、もう一回転すれば「福島は誘致した=自分たちがほしがったでしょ?」と言い出すのか。
 

 値上げする? 電力会社は自分たちの原子力を選択するという経営方針の破綻を、どうして値上げでユーザーに押し付けるのか。一体いくらで原油を買ってくるのか。
 廃炉の費用? 廃炉なんていつか来るに決まっているし、そもそも稼働30年をこえたような老朽した原発がいったいいくつある? 次に次に廃炉の費用がかかわるのは、30年ゼロを決定しようとしなかろうと同じだろう。いずれ廃炉にはなるのだから。

***

 この間、2冊の本を読んだ。
1) 北村博司 『原発を止めた町 三重・芦浜原発三十七年の闘い』
2) 恩田勝亘 『原発に子孫の生命は売れない 舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』

 芦浜原発の記録は原発問題を取り上げ続けてきた『紀州ジャーナル』の北村博司が描いた年代記。この前に20年史があるが手に入るようにして欲しい。
 政治的な交渉や力学の微妙な作用の仕方などもあるが、根本的に芦浜原発は「実力で阻止」されたのだと強く思う。何人もの漁民が逮捕をつきぬけて、大きな闘いを37年にわたってつくりあげ続けてきた。その漁民たちは、「指導者」に指示される存在ではない。さまざまな局面で「指導者」の思惑をこえてたたかいを貫いていった。沖縄の教公二法阻止闘争などに描き出されるたたかいのあり方に同じだ。

 舛倉さんの存在と闘いはこの本で初めて知った。浪江町。たぶん、この棚原反対同盟の人たちの中にも避難している人達がいる。
 その無念の思いはどれほどだろう。
 原発立地の地元は「誘致した責任があるだろう?」という議論をした人たちがいるが、棚原原発反対同盟の人たちは、浪江で全力で原発建設を阻止した。その人達もまた福島第一の被害者になっている。その過酷さは想像にあまりある。彼らは阻止したんだ。なのに原発の被害をもろに受けているんだ。

 原発を止める力というのは、こういう力なのだと思う。
 静岡の県民投票。頑張って欲しいとは思うが、けれども、ニュースで語られていたように「県民は自分たちの意見を一票に託したいんだ」というのは本当の声ではないだろうと思う。本当の声は、「再稼働を止めたいんだ、原発を無くしたいんだ」ということだろうと思う。ならばストレートにそう主張し続けることがやはり大切なことに思える。反対のはずだったのに、いつのまにか「一票に思いを託す(賛成でも反対でもない)」にスライドしてしまっている。脱(あるいは反?)原発が、民主主義の要求に摩り替わってしまっている。
 私は例えどんなに「民主的」に原発推進を決めようが、再稼働を決めようが、反対だ。即時・全面・停止。妥協も何もない。芦浜も、棚原も、原発に対してほんの一歩も、ほんの一ミリも譲歩しなかった。まっすぐに反対を貫いた。そうしたときに初めて原発は止まった。

 久しぶりに再会した。少し時間がたった。

 今している仕事に自分が向いているとはとても思えない。大きな声では言えないけれども、ずっとそう思ってきた。今でも思っている。

 自分の信じることで妥協することができない。それが他の人から見たらごくごく些細なことに見えても、そこに何かの譲れないものがあったりする。激しく言いつのる。言われている方は何でこんなに激しく強く言われるのか分からなかったりするだろうと思う。他人の人生に踏み込むことにふるえるような恐れを感じるにもかかわらず、どうしてもそうしたことに至ついてしまう。そんな人間がこうした仕事についていてロクなことがないだろうな、と思う。時には「破壊」的なことにまで至りつく。

 いったいこんな言葉を投げつける権利が誰にあるというのか。そう思うような言葉を投げつける。けれども他にどういう選択肢も私に見えてこない。
 そんなことが正しいのか、間違っているのか。わからない。
 なのに3・11は、その激しさ、非妥協さを強くした。目の前に「3・11福島」の小さな萌芽があるように思えて仕方ないことがある。そう感じるとき、その根を徹底的に暴きだそうとする。そして半年かかろうが、1年かかろうが、その根を断ち切らなくてはいけないと思ったりする。

 きっとこんな人間が今のような仕事についてはいけないのだろう、とつくづく思うことがある。ほんとうに恐ろしいことだと思うことがある。背筋が凍る様な思いをすることがある。

 ずっとそう思ってやってきた。
 けれども、ときどき、ほんとうにごくまれに、これでも良かったのかもしれない、と思うことがある。

 今日、そんなことを思った。そんなごくごく稀な、そんな一日だった。
 排外主義が膨れ上がってきている。民主党などを批判する言葉が排外主義にまみれている。
 同時にナショナリズムの姿が見失われてきている。

 日本に「健全なナショナリズム」などおそらく歴史上一度も存在したことはないのだろうと思う。別の言い方をすれば、本当のところで歴史の中で、ある瞬間だけでも民衆に立脚した国家が建設されたことはなかった。それはアメリカやフランスなどと、決定的に異なるところだろう。
 その点で明治維新が「大政奉還」という名のものとでスルリと政権移譲してしまったこと、その前後の農民一揆が封じ込められたこと、明治の劈頭を飾る自由民権運動が押しつぶされたこと、しかもただ弾圧されただけではなく、板垣退助らの上層民権派が帝国議会の開催に絡め取られていったこと。それは決定的に大きな事だった。
 市民革命に根ざした「健全なナショナリズム」の芽はここで絶たれた。だから明治憲法は天皇の名による欽定憲法としてしか制定されえなかった。

 もしそれを塗り替えるとしたら一つには1945年の敗戦から55年体制の確立までの時期だったのだと思うが、それも封じられた。三井三池闘争と60年安保、ベトナム反戦と大学闘争、70年安保・沖縄。それらをもってしてもこの国の根本的な形は変わらなかった。

 日本人は「長いものにまかれる」「おとなしい国民だ」などというのは歴史の歪曲だと思う。明治維新から自由民権運動の激しさ、志の高さには眼を瞠るものがある。

 そして少なくともそこにはクッキリとした区分があった。自由民権運動が押しつぶされて以降、ナショナリズムはたたかうべき相手だった。国難の声はつねに向こう側から響いてきた。
 ところがそれがいま、こちら側からわき起こっている。少なくともそう思える。

 なんどでも言う。この国は、たった一度も、本当に人々のために存在したことなどない。水俣病患者を切り捨てようとする国家に対して激しく抗議しつめよったとき、その患者たちを目の前にして橋本厚生大臣はその発言の撤回を求め、一度も国民を切り捨てようとしたことなどないと胸を張ったらしい。
 けれども米軍のプレスコードのもとで広島・長崎の被曝者の存在とその声は封じられ、彼らが身をもって証した被曝の実体もまた覆い隠されてきた。沖縄は本土と国体の衝立にされ、そのままアメリカに売り渡された。水俣病はたった一度も全面的な調査もされずに現在に至っている。「国民」として徴用され、徴兵された朝鮮・台湾の人々は、敗戦後直後は「日本人」として民族的権利が否定され、日本人と同じ権利を求めると今度は突如、外国人としてあらゆる保障からはじき出された。戦後の復興は朝鮮半島での死体の上に築かれ、戦後の経済は、ベトナム戦争やパレスチナ難民を生み出した度重なる中東の戦乱の上に成り立ってきた。

 なにが竹島だ、尖閣諸島だと思う。沖縄を売り渡し、戦後の裏面のほとんどを押しつけてきた国家が何が領土を守れだ、と思う。こういうのをダブルスタンダートというのだろうか?いや生易しいな。二枚舌というべきか?

 福島と被曝・被曝者をこの国は必ず切り捨てる。封じ込める。見えないように覆い隠し、葬り去る。それが一貫したこの国の形なのだと思う。だから福島を守る、子どもたちを守る、それだけの本当に単純なことがこの国では容易なことではなくなっている。この国でナショナリズムだ国益だと言い出したら、それはどうようしようもなく人々とは逆の側に立つことになる。歴史は変わる。変えられる。けれども恣意的に、ではない。ナショナリズムの側に立つことの意味は、自分の意志でさゆうできるものではない。
 つくづく、そう思う。


 目に見えない何か、そこに存在しないあるもの、その存在の気配を目に見える形として捉えようとし続ける。それはどこかで自分の、ありうる世界を探し求めていることと同じことなのだろうか。いつも世界から少しこぼれ落ちかかっている自分を、どこかから眺めている自分の眼差しの中で、ときどき世界がふと親密に思える瞬間がある。それを湖の底に封印しようとすることなのだろか。朽ち果てることも、流れ去ることもない地点にピンで止めておこうとする行為なのだろうか。
 いま、目の前に4枚の写真がある。ある写真家がとったものだ。著作権があるから添付することはできない。

 奇妙に心に残った。心のどこに格納されていたのかわからない、どこにそんな場所があるのかわからない、そんな場所に残っていた。

 そしてその写真をゆっくり見ることができた。いまもその4枚はここにある。ここにあることに深く感謝する。


 ある写真はまるで色彩に満ちた天の川のように思えた。天に浮かぶ色とりどりに、ゆるやかな光をゆっくりと放出する川の流れ。
 4枚を並べて繰り返し見ているうちに、ふと父を思い出した。

 昨年11月、父は永眠した。
 生前、仲が良かったとは言い難い。死ぬ直前の父は細り、弱っていた。長い年月があった。諍い、すれ違い、切断。けれど最後に、やっと私は彼に娘をあわせることができた。娘は父になついてくれた。深く娘に感謝した。何も言わずたった一人の孫と、酸素吸入器をつけながら遊んでくれた父に感謝した。細い、かすかな糸を、やっとつなぐことができたのかもしれないと思った。

 遺影の中の父が笑っている。山に登った時の写真だ。リュックを背負い、頭にバンダナをを巻いている。

 昔は一緒に登ったこともあったっけな。

 真夜中に一人で祭壇の前に座って父と話をした。写真をとった。そしてまた話をした。


 オヤジ、こんなに笑うの、オレはみたことないぞ。

 当たり前だろ、この親不孝ものが。

 せっかく孫を連れてきてやったんだから少しは感謝しろよ。

 まぁ、それはな。でもおまえにじゃないぞ、孫に感謝してるんだ。……


 きっとそんな会話だっただろう。

 そんな親父が、その色とりどりの光の粒の一つとしてその中をゆっくり歩いているような気がした。そしてふとこちらを見て笑ったような気がした。


 何を書いているのだろう? 写真のことだった。
 けれどもその写真をみていると、どうしても父が浮かんでくる。そしていつのまにか父と話をしている。


 小さな光の粒のような、その流れのような、闇に湧きだした魂のカケラのような、それが無数に集まったようだ。そしてカメラの目はそこに今そこに生きている人々を全力で見ようとしている。強い光の粒があり、柔らかな光の粒があり、小さな光の粒があり、霞んでしまいそうな光の粒があり、赤かったり、黄色だったり、青だったり、白っぽかったりする。

 みんなが生きているのだと思う。今ここに生きているのだと思う。ついさっきまで見ず知らずだった人たちが、つい昨日まで迷いの中にいた人たちが、さまざまな個人的な思いを抱え込んでここにいる。きっといる。そう確信させるものがここにある。ふと思う。つい最近、新しい生命を産み落とした人もいるのだろう。新しい命を抱えた人もいるかもしれない。小さな生命を抱きしめた人もいるかもしれない。それと同じように死者を背負ってきた人もいる。亡くなった人の、しかし、消えることのない思いを抱えた人もいる。きっといるのだと思う。
 ここにいない人たちの、もっと多くの何かもここにきっとある。だから私はここに笑っている父の影を見てしまうのかもしれない。

 1+1が2なんてだれが決めたのだろう。10000の次が10001だなんてだれが決めたのだろう。

 背負われている思いを、抱きとめられ生命を、いったい数えることができるのだろうか。目に見えない何かを数えることができるのだろうか。そしてここには目に見えない何かもきっとある。
 天の川のような光の流れの、一つ一つの光彩と、一つ一つの陰影と、一つ一つの見えない何かに感応するようにして、4枚の写真がここにある。そしてそのすべてが得体のしれない国のようなものに向かっている。




 6月29日の首相官邸周辺のデモを空から撮ったものだ。

 6月29日直後に一度、どこかで見た。その時はそのまま流れていった。撮影者も知らなかった。そのあとUSTでふとある写真が話題になった。動画に写真が示されたのではない。けれども直感的に、絶対にあの写真だと確信した。6月29日のデモの様子はいくつも目にしている。けれどもUSTで話題にのぼったとすぐにわかった。理由はわからない。
 でもいくつかの偶然をへて、この写真がいまここにあることに感謝する。そして大きく息を吸い込む。
立っていること、宙の傷痕の
影のもとに。

だれのためでもなく―なにのためでもなく―立っていること。
だれにも気づかれず、
ただ
おまえひとりだけのために。

このなかに空間を占めるすべてのものとともに、

ことばも
なく。
パウル・ツェラン 『息のめぐらし』より「立っていること」


 彼の言葉は、誰かに届いたのか? アウシュビッツから逃れ出たとき、彼に残されたただひとつの言葉をもって、彼は世界に託した。存在を、生命を、悲しみや苦しみを、失われた喜びを。言葉をこえたあらゆるものを。その言葉をこえてしまった言葉は、届いたのか? 私は聞き届けられるのか? 
 ドイツ戦後最大の詩人と賞賛されたが、はたして言葉は届いたのか? 

 1970年4月20日。彼はセーヌ川で発見された。
 彼は、まだ、ことばもなく、この空間を占める全てのものとともに、立っているのではないか。
 「わずかに数章の例外はあるが、1848年から1849年までの革命年代記の比較的重要な各節はみな、革命の敗北!という表題をもっている。

 これらの敗北においてたおれたものは革命ではなかった。たおれたものは、まだ激しい階級対立をとるほどに先鋭化していなかった社会関係の結果である革命以前からの伝統的付属物―すなわち、2月革命までは革命党がふりすてることができないでいた、人物や幻想や観念や計画であった。そして革命党は、2月の勝利によってではなく、一連の敗北によってのみ、それらのものから開放されえたのである。

 一言でいえば、革命は、その直接的な、非喜劇的な獲得物によって、その前進の道をきりひらいていったのではなく、逆に、結束した強力な反革命を生み出したことによって、つまり、それとのたたかいをつうじてはじめて転覆の党が、本当の革命党に成長することができるところの一つの敵をつくりだしたことによって、前進していったのである。」
(カール・マルクス『フランスにおける階級闘争』)

 反原発、脱原発、再稼働反対。さまざまな抗議行動・阻止行動がくりひろげられるなか、久しぶりにマルクスをめくった。『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』『フランスの内乱』というマルクスのいわゆるフランス三部作の第一作。1848年の2月革命からルイ・ボナパルトのクーデターをはさみ1871年のパリ・コミューンとその鎮圧までを描いている。

 三部作は、フランスという最も激しく、鋭く階級闘争を行き着くところまで推し進めてきた歴史を冷徹に描き出している。初めて読んだ時、「マルクスにはそこに生死する生身の人間が視野に入っていないのか?」とすら思ったほどその筆致は冷たく、鋭い。希望も展望もそこにはない。それはパリ・コミューンを生きた女性革命家、ルイーズ・ミッシェルの手記などと強いコントラストを見せる。

 敗れるべくして革命は敗北する。マルクスの筆致に扇動的な要素は何もない。呼号することもない。こうすべきだという教説を述べることもない。マルクスはフランスの階級闘争の激しい前進の中に敗北の必然性を捉える。革命に向かってのアジテーションもない。ただその敗れるさま、血の海沈められてゆくさまを凝視しつづけている。けれども彼の革命にたいする確信は何一つ揺らぐことがない。マルクスは、その敗北の中に革命の前進を見ている。
 『共産党宣言』に述べられるように、マルクスにとって共産主義運動とは、あらかじめ何かの方針や形があるのではなく、階級闘争の全歴史の歴史的な総括としてあった。方針があらかじめあるのではない。次の方針は、現前する運動それ自身の中にある。その運動の中にあるものを捉え尽くすことこそマルクスの立とうとするところだった。
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いまはぼつぼつベンヤミンの本を中心に読んでいます。
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