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since 2007 10 24  読み書き、見聞き、したもの。など。 twitter https://twitter.com/takagi_toshi
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 香港が激動している。昨日、ついに香港警察は拳銃を発砲した。
 威嚇ではあったが、拳銃が抜かれ、引き金がひかれ、銃口から弾丸が発射された。これは一つの転換点になるかもしれない。
 デモ隊も8月18日170万とも言われる巨大な、そして平和的なデモと70年闘争を思い起こさせるような激しい実力行使とが相互に呼応しながら進んでいる。あるところでは激しい実力闘争を闘った学生(だと思う)たちを拍手で迎え入れる市民たちの様子を撮影した動画もアップされていた。
 運道は明らかに雨傘運動を総括し、その地平でいまの運動は準備され、闘われている。


 久しぶりにAmazonにレビューを書いた。以下、その転載。

**********************
『香港』(倉田徹、張彧暋 岩波新書)
 2019年8月。すでに香港の大規模な大衆運動は3ヶ月に及ぼうとしている。一方での激しい実力行使をも伴う闘争と、もう一方での700万人中一70万人が参加したと言われる信じられないくらいの規模の平和的なデモが共存し、呼応し合うようにして状況が進んでいる。
 香港警察は昨日、ついに発砲した。人間めがけて、ではないにしろ、拳銃を抜き、威嚇し、発砲。その背後には圧力をかける中国政府がいる。
 本書は2015年に書かれた。前年のいわゆる雨傘運動(雨傘革命という言葉は筆者たちによって採用されていない)の翌年に出版されている。雨傘運動とは何であったのか、それはいかなる歴史の中で現れてきたのか、どこにたどり着いたのか、そこに含まれている課題は何だったのか。そこに迫ろうとしている。
 本書を読むと、2019年夏の闘争が明確に雨傘運動の経験を踏まえ、それを突き破ろうとする模索の上で戦われていることがかなりはっきりする。
 前半3章は倉田徹が中国、イギリス、香港の歴史を概括的にまとめている。
 後半2章は張彧暋が書いている。4章は香港の文化をとおして香港に生まれてきている自己認識を分析する。そして5章は雨傘運動自体に迫る。
 雨傘運動には占領中環(オキュパイ運動)と学民思潮という運道の指導的グループが2つある。世代的にもことなる。
そして占拠運動も2つの中心地を持つ。対照的な金鐘と旺角。メディアなどでも非常によく好意的にとりあげられてきた前者にくらべ後者には、学生を守ろうとした「闇社会の人々」なども登場し、庶民の混沌としたエネルギーにあふれている。張彧暋はその旺角から10分ほどのとこに住んでいたとのことで2つの占拠地を比較しながら運道の2014年現在の状況と今後を見つめようとしている。
 2019年の運道は様々な点で2014年をくぐり抜け、考え抜いてきた人々によって準備され、担われている。
 すべてではないにしても、現在の彼ら/彼女らの考えていることが少しだけわかる気がする。
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多木浩二の『思想の舞台』を読んでいる。
 彼がダンスについて、あるいはダンスの写真について書いている文章は他に知らない。「専門外」のため、ときどき言い淀んだり、言葉を探しあぐねたり、少し自信なさげだったりしながら、それでも書き続けている。

 たぶん、それほどに彼にとってダンスやダンスを写し取った写真は思考を刺激するのだろう。読み手として、私はそのまだ固まりきらない思考が立ち上がる瞬間に居合わせることができるように思えるのはこの本の魅力かもしれない。


 多木浩二の文章を読むにつけ、彼の思考の<現場性>のようなことに惹きつけられる。
 むろん一般的に学者や研究者が、既成の理論や考え方のテンプレートで現実を裁断しているとは思わないけれども、彼ほど、<現場に直面して思考が始まり、現場に直面して思考が躍動する>感覚をうける書き手はあまりいない。すでに自分が考えたこと、書いたこと、吐き出した言葉を一顧だにしない。そんな気がする。
 例えば『生きられた家』や『「もの」の詩学』などを読むと、多木浩二の目や手、ファインダー、<多木浩二>としてかたちづくられてきた一つのスタイルを通しながら、「もの」そのものが流れ出してくる。いや「もの」そのものというよりも人間に現れた「もの」そのもの、というべきかもしれない。そんな手触りがある。

 『思想の舞台』のなかでこんなフレーズがあった。
 「私は美術、建築、写真の批評家であるが、たいていはほとんど即座に判断する。その場合でも長い論文を書くのは言葉と思想が熟したずっとあとになってからのことであり、そのとき、決して書きはしないが浮かんでくるのは『美しい』という言葉なのである。」
(「「美しい」という言葉 イリ・キリアンに贈る言葉」『思想の舞台』p81)

 そうか、即断するのか。
 言葉と思想が熟成時間は必要であるとして、しかしその出発点は「即断」にあるのか。なるほど。
 その「即断」は「即座の判断」だけれども意識的な行為としての「判断」ではないのだろう。むしろ「もの」と「多木浩二」が接触したその瞬間、「もの」と「多木浩二」が未分化の状態の何かから直接派生することだと思う。接した次の瞬間と言うべきか。
 それは言葉そこから立ち上がる場であり、言葉が否定される練磨の場であり、立ち上がった言葉が立ち還り構造化していく経験が生み出された場なのだろうと思う。人称すらないような、人間の内部とも外部ともいいえぬような、そのような場ではないかと思う。

 まぁ推測に過ぎないけれども、この「即断」が彼の思考の<現場性>であり、<現場に直面しての躍動性>が湧き出す地点なんだろうと思う。
あいかわらずスペイン内戦/革命の歴史を追っている。
 カタルーニャの独立問題があるからが最初の気兼ねだけど、ケン・ローチの『大地と自由』、そしてあまり話題に上がらないけれども『ファーザーランド』をみたことも影響している。スペイン内戦/スペイン革命の射程は思っていたよりもずっと長く、深い。

 いまポール・プレストンの『スペイン内戦』をむかつきながら読んでいる。どうしても食指のうごかないH・トマスの『スペイン市民戦争』の系列のものだと思うけれども、あちらこちらで苛つきながら読む。まぁこういう本の読み方もタマミにはしないといけないのかも、と思う。


 ブレイディみかこさんの(どうもこの人には「敬称」をつけてしまう。なぜだろう?)『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』を先日読み上げて、吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 』(中公新書) を読むはずだったのにあることでダンス関係の本を読み始めてしまった。そのため短期的なものになると思うけれども別のツィッターアカウントとブログまでつくってしまった。

 ひょんなことからひょんな世界に迷い込むこともあるものですね。
ノート 廣重徹『科学の社会史』(岩波現代文庫)
序章 社会のなかの科学
 「ところで、科学の体制化はごく新しい現象に属する。近代科学の歴史はおおざっぱに言って17世紀に始まるが、当時は、航海歴作成上の要求から国家的事業として進められた天文観測(イギリス)など、ごく一部を除いて、科学研究はわたくしごとであり、その社会的意味からいえば、近代社会形成の一環をなす思想的運動であった。17世紀から18世紀にかけての科学のにない手は、貴族、商人、医師など生活の余裕と余暇を持つ人々か、でなければ宮廷のパトロネージに依存する人々であった。
 ところが産業革命をへて19世紀に、科学は一つの社会的制度となった。科学を教え、さらには研究することが職業となり、科学を存続させるメカニズムが社会のなかに備わる。しかし、このときには科学はまだ、産業にとっても政府にとっても外生的なものにとどまっていた。科学を利用はするがそれをみずからの内部にとりこみはしないのである。科学の体制への編入、体制化は、世界的にみて第一次世界大戦ではじめて芽生え、第二次大戦によって決定的となるのである。
 私は前著『戦後日本の科学運動』(注 1960年)で、いま日本では科学の全面的な体制編入が進行中だと述べた。しかし、科学の体制化は日本においても、このとき突然始まったのではなかった。日本でもやはり体制化は第一次大戦で芽生え、第二次大戦中に本格的に始まったのである。第二次大戦後の10年余りは、敗戦、経済的窮乏、外国軍隊による占領などの事情によって特集な情況がつづいたが、そのあいだも体制化は無に帰したのではなく、戦時中に作られた基本的な構造は温存されていた。そして占領終結、経済的復活強化にともなって、ふたたび前面に現れ、以後は全く世界的動向に足並みをそろえるにいたっている。(p5~)

 「しかも、この『追いつき史観』は日本の科学(者)の被害者意識と表裏の関係にある。日本の科学と欧米の科学との懸隔をはかり、それを政府の施策の貧困と人びとの科学への無理解の責に帰するというのは、長いあいだ科学者の対社会的な批判的言辞のすべてに共通するパターンであった。このように言うことによって、科学者は恵まれない条件と社会的無理解の中にあって、それでも世界的な水準に到達すべく悲壮な努力を続けている集団として、同情すべき境遇にみずからを位置づけることができた。
 現象を表面的にみるなら、ひとまずそのように言うことはまちがいといえない。しかし、以下で私が示そうと努めたように、日本の科学(者)はけっしてたんに被害者でありつづけたのではない。むしろ逆に、それは体制によって育成され、ことに1930年代以来の戦争体制の強化(そして戦後は経済成長政策)を契機として格段の発展をとげた。日本の産業の重化学工業化の基礎は戦争中におかれたといわれるのと同じ意味で、日本の科学のこんにちの展開の基礎は戦争によって培われたのである。科学の体制化という点では日本も欧米諸国もまったく変わりない。日本の科学もやはり、戦争に荷担してきたことを免責されないのである。(p7~)
第一章 日本における近代科学の基礎工事
 「さて、帝国大学令は1889年(明治22年)に発布される大日本帝国憲法と密接に対応するものであった。これは文部大臣森有礼の手で一連の教育改革の一部として制定されたのであるが、森は憲法制定の中心人物伊藤博文と緊密に協力しつつ、この教育改革を進めたのである。森は駐英公使であった1882年(明治15年),憲法取調べのためヨーロッパへ来た伊藤と会い、教育の政治的重要性と改革の必要性とを語りあい、将来の協力を約したという。1885年(明治18年)、伊藤を首相としたわが国最初の内閣が発足すると、森は約束したがって文部大臣に就任し、教育改革にとりかかった。
 伊藤はドイツで法学者スタイン(L. von Stein)から憲法について講義を受けたが、そのなかでスタインは教育問題をもとりあげ、官僚養成機関としての大学の重要性を説いた。彼は官学主義を推奨し、大学の課程、年数等はすべて法律をもって定めるべきだと主張した。徹底した国権主義であり、よくいわれるドイツ流の akademische Freiheit とはまったく異なる。憲法制定顧問として日本に招かれ、数々の助言をおこなったレースラー(H. Roesler) も同様の考えをもっていた。彼によれば、大学は私立にまかせると反国家主義的となり国民思想を動揺させる危険があるから、必ず国立とすべきであり、ドイツの大学は局限された自治権をもつとはいえ、それは形式的なものにすぎず、重要事項はすべて国家が管理するところである。
 こういう考えに親しんだ森にとって、大学は何より国家のためのものであった。その考えは、『帝国大学に於いて教務を挙る。学術のためと国家のためとに関することあらば、国家のことを最先にし、最重んぜざるべからずという言葉に端的に現れている。
 こういう背景をもつ帝国大学令はその第一条で、『帝国大学は国家の須要に応する学術技芸を教授し及其蘊奥を考究するを以って目的とす』と定めている。これは2つの点で注目すべきであろう。一つは学問の研究をはじめて大学の目的の一つにかかげたことである。しかし、それはけっして大学を真理のための真理をめざす学問的共同体とみなすことではなかった。学問の教授も研究も『国家須要に応ずる』とはっきり限定されているからである。この国家主義こそ、帝国大学令の第二の、しかしいっそう重要な特色であった。これ以前には、政府も教育問題については東京大学の意向を事実上かなり重視してきたが、帝国大学令は大学の政府への従属を強化した。評議会の設置を公認して自治権を与えるかにみえながら、じつはそれは文部大臣から大学への内政干渉の通路となるように規定してあった。(p29~)
補足 坂田昌一『原子力をめぐる科学者の社会的責任』(岩波書店)より
 1953年に彼が記したことは注目にあたいする。ただし坂田自身はそれ以降、「平和と民主主義をねがう科学者の良心」とでも言うべきものにたいするあまりにも楽天的な(あるいは政治的な)立場に傾斜していく。
 「一昨年(注 1951年)日本学術会議の学問・思想の自由保障委員会が全国の科学者にアンケートを出し、過去10数年間において学問の自由がもっとも実現されていたのはどの時期であったろうかと質問したのに対し、太平洋戦争中であったという回答をよこした人が非常に多かった。これはもちろん研究費が潤沢であったという意味の答えだと思うが、日本の科学者の学問の自由という問題に対する意識がいかに低いかを示したものといえよう。過去において日本の科学者は学問の魂である自由の代償として研究費をかせいでいたが、戦後日本学術会議の発足あたってそのような卑屈な態度を強く反省したのであった。」(p24)
 はたしてそうか?
 その日本学術会議の「反省」のあとにアンケートで「率直に戦争中こそが自由であった」と回答が寄せられているのだから坂田の後段の見解は皮相だといわなくてはならないだろう。
 むしろ日本の科学者の「非常に多く」が、国家的要請への協力、戦争への協力に自己の学問的意義を見出していたいのではないのか。それは廣重の記述とあわせるならば、そもそも大学というものは、あるいは日本の「学問」は国家に仕えることを本質とするところから始まり、そうした心性を培ってきたというべきではないか。科学者の学も問的良心と戦争と国家主義は対立などしていなかったというべきではないか。
 そしてそれは原子力をめぐる今日の状況にそのままつながっているようにしか見えない。
衝撃だった。全然知らなかった。

 新崎盛暉『未完の沖縄闘争 沖縄同時代史別巻●1962~1972』に次の記載があった。1969年2・4ゼネストとその封殺を総括する文章のなかにあった。
「また石田郁夫氏は、いくつかの雑誌のルポのなかで、全軍労と同じく布令によってストを禁止されているにもかかわらず平然として長期間のストライキを続けた軍港湾労の事務所に、『連帯を求めて孤立をおそれず、力およばずして倒れることを辞さないが、力つくさずしてくじけることを拒否する』という言葉が大きく掲げられていることを伝えている。基地労働者が、この言葉をみずからの言葉として選びとったという事実の与える衝撃はあまりにも強烈である。」(p376 初出『現代の目』1969年9月号「思想としての沖縄」)
 言うまでもなく彼らが選びとったという言葉は、東大全共闘が安田「解放」講堂に書きつけたものだ。
 軍港湾労という労働組合についてはまったく知らなかった。それにしても壮絶な覚悟だと思う。今まで読んだものにたぶんこの組合の名前は出てこなかったと思う。その後、どうなっていったのだろう? 後に1973年10月に軍港湾労は全港湾に加盟したようだけれども、詳細はよくわからない。いったいどういう組合なのだろう? どうやってこれほどの覚悟を固めていったのだろう。


 それにしても、いまも基地がなくなったら沖縄の経済がどうのこうのという声があったりする。沖縄で出てくるならまだしも、本土でもある。そんな声をこの軍港湾労の労働者たちが聞いたらどう思うだろう。

 上記の石田郁夫のレポートののち、全軍労は沖縄返還ムードの中で激しくたたかいつづける。
 1969年佐藤・ニクソン共同声明で沖縄「返還」の具体的な日程が決まり、米軍基地の再編・合理化が激しく進み始める。ベトナムでの敗勢とアメリカ経済の弱体化の中で、アメリカは軍の再編・合理化を打ち出していく。そして日本の本土政府が前面に立つことで、沖縄の安定的な支配に心砕く必要がなくなった米軍は、69年12月2400名の解雇通告をかわきりに、72年2月の1629名の解雇通告まで断続的に基地労働者の首切りを通告してきた。
 それに対して全軍労はさまざまにたたかい続け、そして72年3月7日解雇撤回などを要求して10日間のストライキに突入。要求が実現しないまま7日間延長され、3月24日、無期限ストライキに突入していった。新崎は「凄惨な様相を帯びた」というような言い方をしていた。
 結局、無期限ストは、「”泥沼化”をおそれる全軍労執行部三役の一方的指令によって4月10日、35日間で打ち切られることになった」(新崎前掲p519、あるいは「沖縄戦後史」(岩波新書))。
 これはただ「首切り反対」を掲げたストライキではなかった。全軍労の闘争方針は、基本的に「生活保障のない首切りに反対」ということであったが、このストライキの前年71年秋の全軍労大会では72年闘争方針に「基地撤去」を明記した。それは「基地撤去闘争をもっとも有効にたたかうためにあえて基地に踏みとどまろうとしていたのであった。」(新崎前掲p519)
 本土復帰運動は、もともと「憲法9条の、平和憲法のもとの日本に復帰する」というものだったが、徐々に日米の沖縄返還が米軍基地を再編・合理化しつつ維持するものだとはっきりしてくるなかで、「反戦復帰」の色彩を強めてくる。基地がそのままにされる「沖縄返還協定批准阻止」を復帰協が掲げざるを得ない状況が明白になってくる。
 そして米軍基地撤去闘争のもっと強力な力として全軍労があらわれてくる。

 ストライキのさい、全軍労内部では、「このストライキの成果は海の向こうのベトナムであらわれる」という主張が強まってきていたという(「沖縄戦後史」)。そして全軍労の無期限ストライキ突入と軌を一にするかのように南ベトナムでは、アメリカの敗北を決定づける1972年3月春季大攻勢がはじまる。


 沖縄の基地がなくなったら、沖縄の人の生活は大変じゃないですか?
 その問いには、もう40年も前に、基地に最も生活を依存させられてきた基地労働者が血を吐くような思いで決着をつけている。


昨年のイスラエルによるガザ攻撃以降、パレスチナ、イスラエル、ユダヤ人問題とシオニズム、ナチズムとホロコーストにかかわるものをある程度集中して読んできたけれども、区切りをつけられないでいる。

 それにしても一応はシオニズムのことも知らないといけないと思い、ウォルター・ラカーの『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』も読んだ。ラカーは基本的にシオニズムの立場に立っているが、一読に値するようなことをどこかで読んだ。

 1000ページに及ぶ浩瀚なもので、しかもシオニズムの誕生からイスラエルの建国までしか扱っていない、つまりいわゆる「パレスチナ問題」には触れていないのだから、その対象としている時代についての記述は詳細ではある。けれども最も基本的なことについてほとんど書かれていない。

 つまり、
1)いったいユダヤ人とはだれのことを言うのか。
 これについてはイスラエルにおいて、イスラエル国籍を有することができるかどうかをめぐっていくつかの裁判がある。
 ユダヤ人=ユダヤ教信者だとすれば、ユダヤ人=パレスチナ出身者に限定できなくなる。シオニストが主張するパレスチナへの歴史的権原が揺らぐことになる。
 ではパレスチナから追放された人たちの子孫を言うのか。
 しかしそうなるとキリスト教への改宗者なども含むことになる。それに現在パレスチナにいる人々の少なくとも一部はユダヤ教からキリスト教、イスラム教に改宗することでその地で生き続けたことを選択した人たちでもあるはずだ。
 そうなるとシオニストが主張するようにパレスチナを、自分たちが、自分たちだけが歴史的権利を持つ土地だという主張ができなくなる。

 USにおける黒人差別だって、一体誰が黒人なのか、じつはそれほど明確ではなかった。数世代を経過することでその区分はきわめて曖昧になった。だから真っ白の肌をして金髪の女性が、黒人奴隷として売買されることすらあった。(本多創造『アメリカ黒人の歴史』)

 むしろこうしたことは、差別をする側が極めて恣意的に規定しているにすぎない。それは日本における在日への差別、朝鮮・中国の人びとへの差別・排外主義でも同じだ。
 ラカーは、ユダヤ人について何も述べていない。あたかも自明のことのようにしている。けれども本当なそれほど単純な問題ではないはずだ。


2)反セム主義、ユダヤ人差別の歴史的・社会的根源は何か。それはどうすれば解決できるのか、あるいはできないのか。
 だれがユダヤ人なのか、ということと重なり合うことだけれども、この点についてもラカーはほとんど何も述べていない。たださまざまなシオニズム内部の議論や、シオニズムに反対する「ユダヤ人内部」の論について、ものすごく単純化していえば「ほら結局、反セム主義はなくならいではないか。その点でシオニズムは正しい」と言っているにすぎない。

 ラカーの本を読んでいて、シオニズムが反セム主義を前提にしてはじめて成り立っているのではないか、という疑問を強くもった。それはレニ・ブレンナーの『ファシズム時代のシオニズム』を読んで確信に変わった。
 シオニズムは「反セム主義・ユダヤ人差別は絶対になくならない」としてその根拠を「血の理論」にもとめる。ここでシオニズムはナチス・ヒトラーと思想的基盤を共有し、実際の協定を結び、世界的な反ナチズムの運動に敵対する。その過程で「ナチスの、血の思想にたったユダヤ人差別は、ユダヤ人とアーリア人を異質であり、共存できないものとすることでユダヤ人を結集させ、パレスチナの建設に寄与するもの」という趣旨の発言がいくつも飛び出してくる。

 ユダヤ人差別は、血統的な問題であり、絶対になくならない、各地に分散したユダヤ人は差別され続ける。だからパレスチナに集まって一つの国家を作ることが必要なのだ、という。ホロコースト期においてすら「ユダヤ人国家の建設には血の犠牲が必要なのだ」とすら述べる。シオニズムにとってディアスポラのユダヤ人の反差別闘争・権利闘争はイスラエル建設にとって、力を分散し、マイナスになるだけのことであって否定の対象でしかなかった。

 差別は絶対になくならないとするシオニズムは、差別があることを大前提として成り立っており、反差別の運動に敵対する。そうして根本的にホロコーストの共犯者になっていく。


3)かりにシオニズムの主張を基本的に認めたとしても、なぜ「ユダヤ人国家の建設」だけがパレスチナにおける「郷土建設の具体的なあり方」なのかについてついに明確にならない。
 確かにアラブ民族との対立はあった。
 しかし「パレスチナで生活をする」というにとどまらず、排他的な「ユダヤ人国家建設」を掲げるならば、必然的に排除されるアラブ人が生まれるのであり矛盾と摩擦を生みだす。
 初期の段階でシオニズム運動の中にもアラブとの共存を志向するグループはひとつの力をもっていた。しかしそれはついに成り立たなくなる。
 イスラエルの初代大統領になったワイズマンを筆頭に、シオニズムは初めはトルコと、ついでイギリスと、そしてUS…つまりアラブを帝国主義的に支配する勢力と協力し、そのサポートのもとでイスラエル建設を成し遂げようとする。非常にはっきりと帝国主義の植民地支配の一翼を担うようなかたちでパレスチナにおける国家建設に動いていく。その対極にブントのような労働者階級と結びつき、帝国主義支配とたたかおうとする勢力もあった。しかしシオニズムはその道は選択しなかった。それは必然的にアラブ民族主義と対立することになるものだった。

 ブントは、たぶんその最大の実体はポーランドにあったのではないかと思うが、シオニズムが「パレスチナ建設に有用な若者、ないしはシオニスト」を優先的にパレスチナに脱出させたのにたいして、ブントはポーランドに踏みとどまり、ナチスに対して蜂起(ワルシャワ・ゲットーの蜂起)し、そしてポーランドのユダヤ人と運命を共にした。
 シオニストのイスラエル建国はこうしたことの上に推し進められた。

 ラカーの本を読んでも、どうして「排他的なユダヤ人国家として」建設されねばならないのか、どうして植民地支配者の側に徹底的に寄り添うようにして「ユダヤ人差別からの脱出」をはかるのか。その批判に耐えうる論拠は示されない。

******

 並行してプリーモ・レーヴィの邦訳のすべて、ナタリア・ギンズブルグ、ハンナ・アーレント、いくつかのホロコーストの記録にかかわるものを読んだ。映画もみた。サイードも読み、”Out of Place"もみた。

 そしてやはりイスラエルという国家は一度解体する以外にないのだと強く思う。イスラエルとパレスチナの二国家の『平和共存』ではなくて。きっとその「二国家の平和共存」ということの方がはるかに幻想的なのだと思う。


 ガザの停戦はとても不安定な状態だ。何も解決していない。

 ガザの空爆、砲撃、地上侵攻。破壊、避難、負傷者、そして夥しい死体。振り上げられた拳、頭を抱え込む両腕。天を仰ぐそのまなざし。
 そうしたガザを見ながら、tweetを右から左へと流すような作業をしていた。それに過剰な意味をもとめようと思わない。かといって無意味であるかどうかを、いま考えようとも思わない。ただ、「それ」が目の前に差し出される。そしてretweetする。そのとき、一つの選別が介在する。その後ろ暗さ。

 そうした時間を、支えるために、エドワード・サイードの『パレスチナ』とあわせて、李静和の『つぶやきの政治思想』、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読んでいた。いまパウル・ツェランの詩文集を読んでいる。



 サイードの『パレスチナ』を読んでいると私の認識する「ガザ」がどれほど単純化したものなのかよく分かる。
 
 私の言葉がガザを「単純化」していることは自覚しておくこと。
 しかし、どんな言葉も「単純化」を免れることはできない。居直ってはいけない。しかし根本的に免れることなどできはしない。事実は、あらゆる言葉よりも豊かだ。それが唯物論の意味だろう。
 スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ。
 ガザへの攻撃のさなかに読みうる数少ない本だった。
 それにしても、なんとソンタグは明晰で鋭敏で自由なのだろう。

 これほど私の、あるいは私たちの、こう書くと彼女に、「私たちって一体誰?」といわれそうだが、ここでは「私たち」としておくけれども、その私たちの暗黙のうちの了解を、漠然たる前提を、とても自由に、垂直に切りだす。まっすぐにそのナマの部分に切っ先を立て、すっと刃を引く。何のためらいも衒いもなく。


 遠く離れて戦争を見ていることの意味、そのあり方。そこにまとわりつく如何わしさ、どす黒さ。まっとうそうな主張が、まともそうに思えれば思えるほど、ソンタグの言葉はその深層に向かって表皮を切り裂く。ほらほら、これがあなたの患部だよ、私にもあるけどね。そんな声が聞こえる。

 写真について述べられている。
 その自明性と、自明性としてのいかがわしさ。禍々しさ。さらに、その写真が大量に流通することのもつ危うさ。写真をとるもの、それを見るものに潜みうる暗がりのようなもの。
 そうしたことを感じ続けた。そう感じ続けながら、写真を、言葉を、ただ中継した。しかもむろん、それは私をフィルターとして「選別」されている。私がみたものをすべて右から左へと流しているわけではない。暗黙のうちに、あるいは自覚的にそこでは選別がある。
 ガザから流れてくるものを選別することの禍々しさ。ガザについての言葉を発する。必ず何を知っているんだ、という声が聞こえる。何もしらないわけではない。けれども現実の巨大さの前には「何もしらない」に等しいではないか、と言われる。
 たしかにそのとおりだ。
 けれどもそこに陥穽もある。

 知り得た限りのことで言葉は発されるほかはない。それ以外に、それ以外にどのような言葉の発し方もない。他の言葉の発し方があるのなら教えてもらいたい。極論すれば、ガザの市民もハマスの政治指導者も、軍事司令官も、知り得た限りのことで言葉を発する以外にはない。ただその「知り得たこと」の大きな落差があるだけのことだ。

 だからこそ写真は、動画は、人びとに影響力を与える。それらはとりあえず、そこに写っている限りでの真実ではあると思われる。そして多くの写真や動画みた人たちは、私は真実に触れた、真実を知っている、少なくともその一断面は知っていると思う。言葉だけなら信用出来ないけれども、私は確かにみたのだ、と思う。
 けれども、だ。
 確かに写真より、動画より、言葉はその後ろ暗さに付きまとわれる。それはどこまでも消えない。
 しかし写真家は実は、写真につきまとううさんくささに気がついているのかもしれない。そんな気がする。写真には撮れないことがあまりにも多い。そう生の現実、そういうものがあるとして、それは写真に映るのだろうか。動画に記録できるのだろうか。
 これは一つの問いだ。

 写真には撮れない。動画には記録できない。いま現在の、その生きた世界をそれらは再現するわけではない。いやもともと、その生きた世界は再現することができない。それはただ消え去っていくだけのことだ。写真は、動画は、ではその生きた世界とどのような関係にあるのだろう。無関係なのだろうか。そうではないだろう。けれどもそれは決定的に切断され、切り離された何かだ。写真からは、動画からは、埃も被ることはないし、死臭が漂い出すわけではない。地面が揺れることもない。何よりそれを見ている私が負傷したり、死ぬことはない。しかしそこには、少し前まで名前を持って生きていた人間の亡骸が、生活を刻んでいた家の残骸が映しだされてはいる。けれどもそれは死ではないし、破壊でもない。もっと厳密に言えばディスプレイ上で明滅する多くの輝点であり、スピーカーのコーンの振動によって生まれた空気の密度の変化だ。けれども人間の存在の何かはその通路をとおってここにやってくる。
 だから私はそこに入っていかなくてはいけない。待っていてはそれらはやってこない。
 けれども、おそらく問題なのは、撮り手にとって半ば自明な写真を取ることの、動画を取ることの限界、いかがわしさについて、それを受け取るものがナイーブにすぎることだ。いまではその信憑性について疑問をもつ人たちも少なくはないが、しかし、では写真の、あるいは動画の「真実性」とはいったいなんだろう。報道の中立性ほどに胡散臭くはないが、しかしだからこそいっそう妖しく、その「真実性」は深く虚構にまみれている気がする。
 であるならば言葉こそが現れなくてはならないように思う。
 誰もが言葉について胡散臭く思い、懐疑的だ。言葉は言葉にすぎないからだ。最初から虚構にすぎないと思っているからだ。「真実の証言」なんて聞くと、最初から薄い笑いを浮かべてみたくなるからだ。
 また死体の写真を撮ることはできるかもしれない。ガザでは、それはあまりに簡単だったかもしれない。それはあちらこちらにあった。ガザの大きな病院にいれば、数えきれない生きていた人間の壊れた肉体に遭遇しただろう。ジャーナリストが群がっていた。夥しい写真がとられ、映像になり、世界に配信された。そして私もそれを少なからず中継した。まじまじとみた写真もある。けれどもあまり良く見ないで中継した写真もある。情報テクノロジーの発達はそうしたことを実に容易にした。
 一つの遺体について語る言葉はどのようなもので有り得るだろうか。一つの徹底的に破壊された人間の肉体について、言葉はどのように接するだろうか。
 一枚の写真に拮抗しうる言葉であろうとするならば、どれほどの言葉を重ねることになるだろう。そして重ねたところで一枚の写真に拮抗しうるのだろうか。
 いや、言葉はその等価であり得る。
 それが私の言葉にとって可能なことであるかどうかは別にして、あるいは現在、流通している言葉に可能かどうかは別にして、それは徹底的に異質でありながら、何の共通性もないほどに異なるものでありながら、しかし、同じ質量を持ちうる。もっと率直にいえば、もっと大きな質量を持ちうる。
 これはただの独断的な断定だ。
 言葉は真実を装うことができない。そのようには受け取られないし、またそのように振る舞おうとも思わない。あの石牟礼道子の『苦海浄土』ですら、患者たちの言葉のいかほどかは石牟礼の完全なフィクションだった。そしてフィクションだからこそはじめてその言葉は発することができた。
 私はその一点で写真や映像よりも言葉は何事かであり得るのだと思う。
 それが何であり得るのかはよくわからない。単にガザの、あるいは世界の現実の前で言葉はただのペテン師の前口上に過ぎないということを述べているだけなのかもしれない。だから居直ってはいけない。誰もがペテン師だと知っているペテン師の、その前口上の言葉を字義通りには受け取らない。そしてペテン師もまた誰も字義通りに受け取ってはいないことを知っている。そこからはじまることに何かがある。あり得る。言葉を選ぶときも、誰かの言葉を選ぶことも。言葉を押しのけることであり、誰かの言葉を放り出すことでもある。
 そういえばツェランがこんなことを述べている。
 「逆立ちして歩けないことだけが彼にはときおり不快だった」――これこそがまさしく彼、レンツです。これこそが彼、彼の足を一歩踏み出させた行為、彼、彼の「フランス国王万歳」であると思います。
 「逆立ちして歩けないことだけが、彼には時として不快だった」
 逆立ちして歩くものは、みなさま――逆立ちして歩くものは、足下に空を深淵として持ちます。(『詩文集』p118)
 言葉は、おそらく、自覚的に倒錯するところに出生地をもち、空っぽの深遠であることにおいて何事かなのではないか。だからこそ世界に時に対することができるのではないか。
 さて、ではその「逆立ちの一歩」はどのように踏み出せるのか。
Amazonのレビューが悪いわけではないけれども、読んでいて違和感が出てきた。

 思うけれども、オーウェルはルポルタージュを書こうとしたのではない。書きたかったのでもない。記録にとどめたかったのでもない。世界に訴えたかったのでもない。本当にオーウェルが望んでいたことはスペイン革命の継続であり、それを守りぬくことであり、それを担っている人々、POUMの民兵組織でともにたたかった労働者は農民や少年たちとともにありろうとすることだったはずだ。それが端的なオーウェルの立場だった。

 けれどもその希望が目の前でぐしゃぐしゃに壊れていく。フランコにやられてしまうのではなく、共産党・PSUC(カタロニア統一社会党)に潰されていく。そしてすべての責任がPOUMにあると捏造されていく。

 そしてオーウェルもまた警察に追われる立場におかれ、妻とともにスペインを脱出する。すでに友人のイギリス人も逮捕され出獄のめどなど何もない。銃殺されるかもしれないという状況におかれていた。オーウェルはホテルに戻ることもできず、街の中の身を隠せるところを探して夜露をしのぎ、やっとも思いでスペインを出てフランスに入ることができた。そしてバニュールで静養しているときのことを次のように書く。
気違いじみていると思われるかもしれないが、ぼくら二人とも何がしたいかといえばスペインにもどることだった。だれにもなんの役にもたたないだろうし、実際にはひどい危害をおよぼすことになったかもしれないが、ぼくらは二人ともスペインにとどまって、ほかの連中といっしょに投獄されたらよかったと思った。スペインで過ごした数カ月はぼくに何を意味したか。ほんの少しばかり伝えることができたにすぎないように思う。外にあらわれた事件は、いくつか記録してきた。だが事件がぼくに残したフィーリングを記録することはできない。それはすべて視るもの、嗅ぐもの、聞くものと混ざりあい、文章に書いて伝えることはできない。塹壕の臭い、考えられないほど遠くへと広がっていく山上の夜明け、パンパンなる弾丸の冷えきった音、爆弾の轟音と閃光。人々がなお革命を信じていた12月にもどって、バルセロナの朝の澄んだ冷たい光、兵舎の中庭で革長靴を踏みならす音。そして食料品買いの行列と赤と黒の旗とスペインの民兵の顔。とりわけぼくが前線で知りあった民兵の顔――今どこにいるか誰も知らない、あるものは戦死し、あるものは不具となり、あるものは刑務所に――だが彼らの大部分は、なお安全で丈夫でいてほしいとぼくは願う。みんなの幸運を祈る。彼らが戦争に勝って、外国人を全部スペインから追いだしてもらいたい。ドイツ人も、ロシア人も、イタリア人も同じように。この戦争でぼくが果たした役割はひどく効果のないものだったし、それがぼくに残した思い出は、たいてい悪しきものである。それでもぼくは、これにかかわらないほうがずっとよかったとは思わない。これほどの大惨事を一目みたとき、――しかも、どのような結末を迎えようとも、スペインの戦争は、抹殺や肉体的な苦しみとはまったく別に、それ自体、恐るべき大惨事だったことが判明するだろう――それから生ずるものは必ずしも幻滅やシニシズムではない。奇妙にもこの全体験がぼくに残してくれたのは、人間の人間らしさにたいする信念が弱まったのではなく、強くなったことである。
(ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』岩波文庫版p258)
 投獄され、銃殺にされるかもしれない。にもかかわらずオーウェルはスペインに戻りたかったという。彼はスペインの革命とともにありたかったのだろう。それが彼のなかに宿ってしまっていたのだろう。

 スペインを脱出したオーウェルには、もうスペイン革命に参加することができなくなった。しかもそれは解体され、失われ、忘れ去られていく。そのとき、もしオーウェルにスペインに行き、革命の防衛のために再び銃を握り、前線に赴く選択肢があったならば彼は喜んでそうしたかもしれない。それがかなわないなかで彼にできることは『カタロニア讃歌』を書き上げることだけだった。それ以外にもう何も彼にできることがないのだという地点で彼は、これを記録でも、ルポでも、「何とかの真実」というようなものでも、思い出でもなく、「讃歌」として書き上げ、捧げたのだと思う。何より彼はスペインにいたとき、ライターでも新聞記者でも作家でもなく、他のスペインの労働者や農民と同じ革命に胸をあつくし、その輝きと未来を守ろうとするPOUM指揮下の第29師団の一人のただの民兵だった。きっとその事こそが彼にとっても最も大切なことだったのだと思う。そしてスペインの帰趨はまだ決していなかった。スペイン革命はまだ思い出でも、記録でも、つまりは歴史ではなかった。『カタロニア讃歌』は彼のスペイン革命のそれしかできることのない戦いだったのだと思う。

 ケン・ローチの『大地と自由』(Land and Freedom)を観て、ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』を読み始めた。ずいぶん昔、読んだきりになっていた。
 ケン・ローチはこの『カタロニア讃歌』から強い影響を受けて映画をとったのかもしれない。同じようなエピソードがいたるところに出てくる。政治的立場も極めて近接している。
 オーウェルの『カタロニア讃歌』はいまどれほど読まれているのだろうか。かなり長くなるけれども、私にとってとても印象的なところを引用し、書き留めておきたい。
 これは1936年12月下旬のことだった。それから7ヶ月もたたない今、これを書いているのだが、もうすでに、ひどく遠い彼方へと後退してしまった時期である。のちの出来事が、1935年(イタリアの味シニア侵略)や1905年(ロシア革命)を抹殺してしまったよりもはるかに完全に、この時期を消し去ってしまったのである。新聞記事でも書くつもりでスペインへやって来たのだが、到着するやほとんどその場で民兵組織に入隊してしまった。当時のあの雰囲気では、それしか考えられないように思われたからである。まだアナキストが、実質的にカタロニアを支配下においており、革命もなお高揚期にあった。当初からその場に居合わせた人々には、12月か1月に、早くも革命が終わりつつあるように見えたことだろう。だがイギリスからまっすぐやってきたものにとって、バルセロナの様相は、驚くべき、圧倒的なものだった。労働者階級が権力を掌握する町にきたのは、ぼくにはこれがはじめてだった。かなり大きな建物は、まずまちがいなく労働者に占拠され、赤旗もしくは赤と黒のアナキストの旗がかかっていた。壁という壁にはハンマーと鎌、それに革命諸政党の頭文字が落書きされていた。…(中略)…給仕人も店員も、客の顔から視線をそらすことはせず、対等な人間として接していた。卑屈な、さらには儀礼的な言いまわしまで一時は聞かれなくなった。「セニョール(旦那様)」や「ドン(上様)」や「ウステー(あなたさま)」さえ使われなくなった。たがいに相手を「同志」とか「おまえ」と呼び、「ブエノス・ディアス(こんにちは)」の代わりに「サルード(ハロー)」と言った。とにかくぼくの最初の経験といえば、エレベーター・ボーイにチップをやろうとしてホテルの支配人から説教されたことだった。…(中略)…だが何より奇妙だったのは行きかう群衆の様子だった。外からみたかぎり、ここには富裕な階級が事実上存在しなくなった町だった。少数の女性や外国人を除けば、「身なりのよい」人はいなかった。ほとんど誰もが粗末な労働者用の服か民兵の制服の青い仕事着か、それらしいものを着ていた。こうしたことはすべて異様で、かつ感動的だった。そこにはぼくに理解できないこと、何となく好きになれないことさえあったが、たちまちぼくは、この事態が戦って守るに値するものだとさとった。…(中略)…
 こうしたことすべてとならんで、戦争のかもしだす険悪な雰囲気もいくらか感じられた。…(中略)…それでも判断できるかぎり、人々は満足し、希望にみちていた。失業はなく、生活費もまだきわめて低かった。目立って貧乏な人はごく少なかったし、ジプシーのほかには物乞いもいなかった。何よりもまず革命と未来にたいする信念があり、平等と自由の時代に突入したのだという感慨があった。人間は資本主義の機械の歯車としてではなく、人間として生きようとしていた。床屋の店には、床屋がもはや奴隷ではないことおごそかに宣言するアナキストのビラがあった。
(ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』岩波文庫 p15~18)
 アラゴン戦線では1937年6月ころまで民兵制度には本質的な変化は生じなかった。労働組合に基礎をおき、それぞれほぼ同じ政治意見をもつ人々からなる労働者民兵部隊は、国内のいちばん革命的な感情をすべて一か所に集める効果をもっていた。それは高い政治意識や資本主義にたいする不信がその逆のものより正常だとされる、西欧でただひとつの、かなりの規模の共同社会であり、ぼくがそこに飛び込んだのは、大なり小なり偶然によるものだった。ここアラゴンの高地では、周りにいる数万人の人々の、全部ではないが主要な部分が労働者階級の出身であり、すべて同じ生活水準を分けあい、平等の関係で交わりあう。理論上は完全な平等であり、実際上もそれから遠くはなかった。社会主義の前触れを経験している、いいかえればそこで支配する精神的な雰囲気は社会主義のそれであると言っても過言ではなかった。そこでは文明生活の通常の動機―下に威張る俗物根性、むき出しの金銭欲、ボスを恐れる卑屈な態度など―の多くが消えてなくなっていた。社会の普通の階級差別も、金でよごれたイギリスの空気の中ではほとんど考えられない程度にまで消えていた。…(中略)…当時どれほど悪態をついたにしても、あとになってみれば、自分の接触したものが貴重なものであったことがわかるのだ。その共同社会では、無関心やシニシズムよりも希望が当たりまえであり、「同志」という言葉は同志愛をあらわして、多くの国でのようにごまかしを意味するのではなかった。ここで人々は平等の空気を吸ったのである。社会主義は平等とは関係がないというのが当世風であることをぼくはよく承知している。世界のどこの国でも正当の御用雑文屋や口先のうまい、けちな教授先生が大ぜい寄ってたかって、社会主義とは、食欲の動機はそのままにした計画的国家資本主義にほかならないことを「証明」しようと大わらわである。だが幸いにもこれとは全く違った社会主義のヴィジョンも存在している。普通の人々を社会主義にひきつけ、すすんで体を張るようにさせる社会主義の「秘法」は、平等の理念である。大多数の人々にとって社会主義は無階級社会を意味するか、さもなければ全く無意味なものである。まずこの点で、民兵組織の中で過ごした数ヶ月は、ぼくにとって貴重だった。スペインの民兵組織は、それがつづいたあいだは、無階級社会の小宇宙と言ってよいものだった。この共同社会では、金もうけをしようとするものもなく、ものは不足しているが特権もこびへつらいもない。そこに生きる人々は、社会主義の幕あけの舞台がどのようなものであるか、大ざっぱな推察ができたことであろう。しかも結局のところ、この社会はぼくに幻滅を与えることなく、深くぼくの心を捉えたのである。
…(中略)…
それが実際に起きているあいだは、ひどいものだったが、ぼくの心がそこで草をはみ、思いをめぐらすには格好の時期である。あのときの雰囲気を伝えることができたならと思う。この書物の初めのほうの章で、いくらかでもそれを伝ええたのではないかと考えている。それはぼくの心のなかで、冬の寒さ、民兵のぼろぼろの制服、たまご型のスペイン人の顔立ち、モールス信号のような機関銃のカタカタいう発射音、尿と腐ったパンの臭い、不潔な小皿から急いでむさぼるようにのみこむ豆シチューの、ブリキ缶くさい味としっかり結びついているのだ。
 この時期全体が、不思議な精彩をはなってぼくの側を離れようとしない。ぼくは、思い出す価値もないほど些細にみえる事件をめぐって記憶のなかで生きる。ぼくはもういちどモンテ・ポセーロの退避壕のなかにいる。ベッドのかわりをしている棚状の石灰岩の上だ。ぼくの両方の肩胛骨のあいだでは若いラモンが花をぺちゃんこにつけて、いびきをかいている。あたりに渦巻く冷たい蒸気のような霧のなかをよろめきながら、不潔な塹壕をぼくは歩いている。山腹の割れ目を半分上がり、バランスを取りながら、野生のローズマリーの根を地面から引き抜こうと苦労している。頭上たかく、何発もの銃弾が無意味な歌をうたっている。
(同上 p122~125)
 そしてジョージ・オーウェルは115日間前線で戦い、部隊の交替でバルセロナに戻る。
 その帰路の列車の中の情景を記している。
 汽車はバルバストロを出発したときにはすでに民兵で満員だったが、途中の駅にとまるたびにつぎつぎと農民たちが乗りこんできた。彼らがもちこんだのは束ねた野菜、逆さまにぶら下げられ脅えきった鶏たち。ナワでくくった袋が通路じゅうをのたうちまわり、そのなかに生きた兎が一羽いることがばれてしまう。とうとうかなりの数の羊の群れがコンパートメントに追いこまれ、あいたスペースに割りこんだ。民兵たちは革命歌を大声で歌い、列車の振動音もかき消されるほどだった。沿線にみえるかわいい少女の一人ひとりに投げキスをしたり、赤や黒のハンカチを振ったりした。ワインや、アニス酒というあまり上品でないアラゴン産のリキュールのビンが何本も手から手へ渡って行った。山羊の皮でできたスペイン独特の水筒を使うと、客車の一方の側から反対側にいる友だちの口へ噴きでるワインを注ぎこむことができ、それで手渡す面倒がはぶける。ぼくの横では、黒い眼をした15歳の少年が、前線で彼がたてた手柄話を、二人の年とった、なめし革のような顔をした農民にくわしく話しており、二人の農民はぽかんと口をあけて聞いていた。センセーショナルだがまったくでたらめの手柄話であることはまちがいない。やがて農民は包をとき、ねばりのある色の濃い赤ワインをくれた。だれもがいたって幸福だった。ぼくの言葉では伝えられないほど幸福だった。
(同上 p128~129)
 そしてオーウェルはバルセロナに着く。1937年4月26日、午後3時。それはバルセロナの5月事件の直前の事だった。
 バルセロナに戻ったオーウェルはその変貌ぶりに驚く。革命の拠点だったバルセロナは階級社会に戻り、ブルジョアはブルジョアとして立ちふるまい、人々は再び卑屈な生活が強要されるようになってしまっている。人民戦線の主導権を握りつつある共産党・PSUCがアナキストやPOUM(マルクス主義統一労働者党)への弾圧を開始。POUMはフランコやファシストと通じているとでっち上げられ非合法化。そして書記長のアンドレウ・ニンは拘束され、その後、バラバラ死体で発見される。
 スペイン革命は、フランコに押しつぶされるのではなく、その前にスターリン、スペイン共産党によって叩きのめされた。それは労働者は農民のもつもっとも根源的な力の破壊であり、フランコの反乱軍を押し返す力を失うことも意味したのだと思う。
 オーウェルはその決定的な時期に、決定的な場所にいあわせた。実際、バルセロナの市街戦にPOUM側で加わっている。
 「だれもがいたって幸福だった。ぼくの言葉では伝えられないほど幸福だった。」
 そうオーウェルが書いたとき、彼は泣いていたかもしれない。彼のもっとも大切な「戦って守るに値する」ものがフランコにではなく、同志であるはずだった者たちによって潰滅させられていく。イギリスもアメリカも何もしない。共産党のプロパガンダによってその圧倒的な光を放っていた革命が、踏みつけにされ、かき消されていく。そのことに誰も見向きもしない。その悔しさに全身を震わせているようなオーウェルの姿がそこにあるような気がする。
 ケン・ローチの『大地と自由』では農村での激しい議論のシーンをとおし、農民たちが農業の共同生産化に向かうすがた、つまりはスペインの革命の姿そのものを描き出し、それに対立する共産党員の発言を浮き上がらせている。
 さらに主人公は、愛する女性同志を侮辱する人民軍の姿に、自らのイギリス共産党の党員証を破り捨て、再びPOUM指揮下の民兵組織に赴く。しかしそこで民兵組織の破壊とPOUMの非合法化の瞬間が訪れる。民兵組織の武装解除と解体、POUMメンバーの拘束にきたものたちを「スターリニスト」と激しく弾劾、批判。
 この激しさがローチの映画のなかでなぜかこの『大地と自由』が日本で手に入らない理由なのかもしれない。
 ローチの映画はカタロニアに、そしてスペイン革命にオマージュを捧げたオーウェルへのオマージュだったのかもしれない。
 イギリスに戻って『カタロニア讃歌』を書き、スペインの真実の姿を訴えるオーウェルは、その7年後、1944年のポーランド・ワルシャワでの反ナチスの蜂起(ワルシャワ蜂起)にたいして、イギリスでほとんどたった一人で論陣を張る。
 スターリンのソ連はワルシャワ蜂起を見殺した。ソ連軍はポーランド国境で軍を止め、ワルシャワの蜂起がナチスによって潰滅させられるのをまってポーランド内に入った。そして自分たちこそが解放軍だと立ち振る舞った。
 そうしたソ連・スターリンにたいしてイギリス政府のみならず、新聞も言論人も知識人も沈黙し、あるいはソ連の立場を擁護した。その姿をオーウェルは、激しく弾劾する。
 その時、オーウェルの心はアラゴン戦線に立ち戻っていたのかもしれない。
2014/03/03(月)
 アンナ・ポリトコフスカヤの『チェチェン 終わらない戦争』を読む。その後、ビールを飲みながら"Les Miserables"の10周年記念コンサートを観た。
 フランスの三色旗と赤旗が誇らしげに掲げられ、打ち振られる。赤旗と自国の旗がともに高く掲げられる国は、もうほとんどないかもしれない。
 赤旗はフランス革命に淵源をもつのだから、もともと共産主義の旗幟だったわけではない。労働者や民衆の血に染められものであり、血で購った自由、解放、そして希望だったはずなのに。殆どの人がそれを捨ててしまった。それはとても大きな大きな歴史の象徴のように思える。
 いまの日本で赤旗が誇らしげに見えるのは映画とかミュージカルの中だけになっているのかもしれない。
 そしてはためく三色旗が、私には掲げるべき国の旗もないことを印象づける。
 私は生涯、自分の国の旗、国の歌をもたない。これまでも、これからも。日本という国はナショナル・アイデンティティを生み出す、歴史の瞬間をもつことがなかった。「国民」はいつも上から統合され、それに迎合し下から付き従っていく。そしてそれに抗うものは、服わぬものとして文化の外部、化外のものとされ排撃されてきた。
 私はこれからも化外のものとして生きていくのだろうと思います。
 それは網野善彦のいう「無縁・公界・楽」というような化外であり、そしてアジールのようなところであればいいな、と思う。
***
 それにしても「チェチェン紛争」のレポートはもう戦争にすら見えない。ただただ略奪があり、強姦があり、誘拐と殺戮があり、破壊があり、人間をすり減らし、摩滅させていく。一体誰と誰が闘っているのかすらわからない。
 アンナ・ポリトコフスカヤは2006年に射殺された。ロシア政府が、あるいは軍が関与しているに違いない。彼女は覚悟もしていただろう。そして書くことを止めることはできなかっただろう。
 例えばこういう会話。
 「2月のあの時、あんた(ポリトコフスカヤ)が逮捕されていることをシャリ市まで行ってチェチェンの外に知らせようとしたあの勇敢な運転手が、殺されたわ。みんなは止めたんだけど『彼女を救ってやらなけりゃいけない』って彼は言ったの」
 「なんですって?殺された?」
 ……
 そう私の命を救うために、イムランは犠牲になったのだ。(p78)
 そして彼女が取材した人たちが殺されたことも知らされる。ヘリで移動中に知り合った大佐と意気投合するが、その大佐も死ぬ。長身だという理由だけで「掃討作戦」と称して拉致し、二度と戻らないことも少なくない。
 その事実をポリトコフスカヤは冷静に描きつづける。
 戦争をやめさせるという決意はあったのだろう。けれども戦争が集結するより前に、生きて自分が取材をやめるという選択肢はなかったに違いない。その選択をするには彼女は一人ひとりのチェチェンの人々と言葉をかわし、深く関わりすぎた。
 一人ひとりの言葉と息遣いを伝えようとしている。匂いが漂ってきそうだ。
 ナチスに捕らえられ絞首刑にされたユリウス・フチークの『絞首台からのレポート』という本がある。彼が処刑される前、獄中で書き綴った手記だ。彼は処刑されたが、その手記は当局の手に渡らず隠しとおされ出版された。そこにこう書き記されていたのを思い出した。
 「この時代から生き残るあなたたちに、私は一つのことをお願いしたい。よい人たちはもちろん、悪い人たちのことも忘れないでいただきたい。自分たちばかりでなく、あなたたちのためにもたたかって倒れた人たちに関する証言を根気強く集めていただきたい。いつの日か今日は過去になり、偉大な時代と、歴史を創った無名の英雄たちのことが語られるようになるだろう。だが私は、無名の英雄たちなどはいなかったのだ、ということを知っていただきたいのである。彼等もまたそれぞれ名や顔や願いや希望を持っていた人間だったということ、したがって彼等のうちの最後のものがもった苦痛も、名の残る最初の者の味わった苦痛より小さなものではない、ということを知っていただきたいのである。彼等のすべてがあなたたちにとっては、常にあなたたちの知っている人たち、血を分けた人たち、あなたたち自身のように近い人間であってほしい、と思うのである。
 英雄の家族がいくつも、皆殺しにされてしまった。彼等のうちのせめて一人なりと、自分の息子や娘のように愛し、未来のために生きた偉大な人間として誇っていただきたい。」(岩波文庫p80)
 読む端から、手の隙間から水がこぼれ落ちてくように、文字の中の彼ら、彼女らの存在を忘れ去っていくことに息苦しくなることがある。
 きっとフチークもポリトコフスカヤも、二度殺させはしないという強い思いを込めていたに違いない。ほら受け取れ、と激しく何かを投げつけられている気がする。
 "les miserables"に感動し、涙を流し、その姿を心に刻めるなら、その想像力をもっと強くし、受け止めなければいけないことが山のようにある。ユゴーや演出家、演者が知恵と情熱と技術を尽くして訴えかけてくるものを受け取ることはたやすいことかもしれない。けれどもチェチェンでのこと、チェコでのこと、かつて、あるいは、いま、起こったこと、起こっていること、失われたこと、失われつつあること。それに向かって知恵と情熱と想像力を鍛えあげて向かって行きたい。感動とか涙とかを感じさせ、流させてもらうのではなく、自分の力で感じとり、透視する力をもちたい。
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