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since 2007 10 24  読み書き、見聞き、したもの。など。 twitter https://twitter.com/takagi_toshi
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 ガザの停戦はとても不安定な状態だ。何も解決していない。

 ガザの空爆、砲撃、地上侵攻。破壊、避難、負傷者、そして夥しい死体。振り上げられた拳、頭を抱え込む両腕。天を仰ぐそのまなざし。
 そうしたガザを見ながら、tweetを右から左へと流すような作業をしていた。それに過剰な意味をもとめようと思わない。かといって無意味であるかどうかを、いま考えようとも思わない。ただ、「それ」が目の前に差し出される。そしてretweetする。そのとき、一つの選別が介在する。その後ろ暗さ。

 そうした時間を、支えるために、エドワード・サイードの『パレスチナ』とあわせて、李静和の『つぶやきの政治思想』、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読んでいた。いまパウル・ツェランの詩文集を読んでいる。



 サイードの『パレスチナ』を読んでいると私の認識する「ガザ」がどれほど単純化したものなのかよく分かる。
 
 私の言葉がガザを「単純化」していることは自覚しておくこと。
 しかし、どんな言葉も「単純化」を免れることはできない。居直ってはいけない。しかし根本的に免れることなどできはしない。事実は、あらゆる言葉よりも豊かだ。それが唯物論の意味だろう。
 スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ。
 ガザへの攻撃のさなかに読みうる数少ない本だった。
 それにしても、なんとソンタグは明晰で鋭敏で自由なのだろう。

 これほど私の、あるいは私たちの、こう書くと彼女に、「私たちって一体誰?」といわれそうだが、ここでは「私たち」としておくけれども、その私たちの暗黙のうちの了解を、漠然たる前提を、とても自由に、垂直に切りだす。まっすぐにそのナマの部分に切っ先を立て、すっと刃を引く。何のためらいも衒いもなく。


 遠く離れて戦争を見ていることの意味、そのあり方。そこにまとわりつく如何わしさ、どす黒さ。まっとうそうな主張が、まともそうに思えれば思えるほど、ソンタグの言葉はその深層に向かって表皮を切り裂く。ほらほら、これがあなたの患部だよ、私にもあるけどね。そんな声が聞こえる。

 写真について述べられている。
 その自明性と、自明性としてのいかがわしさ。禍々しさ。さらに、その写真が大量に流通することのもつ危うさ。写真をとるもの、それを見るものに潜みうる暗がりのようなもの。
 そうしたことを感じ続けた。そう感じ続けながら、写真を、言葉を、ただ中継した。しかもむろん、それは私をフィルターとして「選別」されている。私がみたものをすべて右から左へと流しているわけではない。暗黙のうちに、あるいは自覚的にそこでは選別がある。
 ガザから流れてくるものを選別することの禍々しさ。ガザについての言葉を発する。必ず何を知っているんだ、という声が聞こえる。何もしらないわけではない。けれども現実の巨大さの前には「何もしらない」に等しいではないか、と言われる。
 たしかにそのとおりだ。
 けれどもそこに陥穽もある。

 知り得た限りのことで言葉は発されるほかはない。それ以外に、それ以外にどのような言葉の発し方もない。他の言葉の発し方があるのなら教えてもらいたい。極論すれば、ガザの市民もハマスの政治指導者も、軍事司令官も、知り得た限りのことで言葉を発する以外にはない。ただその「知り得たこと」の大きな落差があるだけのことだ。

 だからこそ写真は、動画は、人びとに影響力を与える。それらはとりあえず、そこに写っている限りでの真実ではあると思われる。そして多くの写真や動画みた人たちは、私は真実に触れた、真実を知っている、少なくともその一断面は知っていると思う。言葉だけなら信用出来ないけれども、私は確かにみたのだ、と思う。
 けれども、だ。
 確かに写真より、動画より、言葉はその後ろ暗さに付きまとわれる。それはどこまでも消えない。
 しかし写真家は実は、写真につきまとううさんくささに気がついているのかもしれない。そんな気がする。写真には撮れないことがあまりにも多い。そう生の現実、そういうものがあるとして、それは写真に映るのだろうか。動画に記録できるのだろうか。
 これは一つの問いだ。

 写真には撮れない。動画には記録できない。いま現在の、その生きた世界をそれらは再現するわけではない。いやもともと、その生きた世界は再現することができない。それはただ消え去っていくだけのことだ。写真は、動画は、ではその生きた世界とどのような関係にあるのだろう。無関係なのだろうか。そうではないだろう。けれどもそれは決定的に切断され、切り離された何かだ。写真からは、動画からは、埃も被ることはないし、死臭が漂い出すわけではない。地面が揺れることもない。何よりそれを見ている私が負傷したり、死ぬことはない。しかしそこには、少し前まで名前を持って生きていた人間の亡骸が、生活を刻んでいた家の残骸が映しだされてはいる。けれどもそれは死ではないし、破壊でもない。もっと厳密に言えばディスプレイ上で明滅する多くの輝点であり、スピーカーのコーンの振動によって生まれた空気の密度の変化だ。けれども人間の存在の何かはその通路をとおってここにやってくる。
 だから私はそこに入っていかなくてはいけない。待っていてはそれらはやってこない。
 けれども、おそらく問題なのは、撮り手にとって半ば自明な写真を取ることの、動画を取ることの限界、いかがわしさについて、それを受け取るものがナイーブにすぎることだ。いまではその信憑性について疑問をもつ人たちも少なくはないが、しかし、では写真の、あるいは動画の「真実性」とはいったいなんだろう。報道の中立性ほどに胡散臭くはないが、しかしだからこそいっそう妖しく、その「真実性」は深く虚構にまみれている気がする。
 であるならば言葉こそが現れなくてはならないように思う。
 誰もが言葉について胡散臭く思い、懐疑的だ。言葉は言葉にすぎないからだ。最初から虚構にすぎないと思っているからだ。「真実の証言」なんて聞くと、最初から薄い笑いを浮かべてみたくなるからだ。
 また死体の写真を撮ることはできるかもしれない。ガザでは、それはあまりに簡単だったかもしれない。それはあちらこちらにあった。ガザの大きな病院にいれば、数えきれない生きていた人間の壊れた肉体に遭遇しただろう。ジャーナリストが群がっていた。夥しい写真がとられ、映像になり、世界に配信された。そして私もそれを少なからず中継した。まじまじとみた写真もある。けれどもあまり良く見ないで中継した写真もある。情報テクノロジーの発達はそうしたことを実に容易にした。
 一つの遺体について語る言葉はどのようなもので有り得るだろうか。一つの徹底的に破壊された人間の肉体について、言葉はどのように接するだろうか。
 一枚の写真に拮抗しうる言葉であろうとするならば、どれほどの言葉を重ねることになるだろう。そして重ねたところで一枚の写真に拮抗しうるのだろうか。
 いや、言葉はその等価であり得る。
 それが私の言葉にとって可能なことであるかどうかは別にして、あるいは現在、流通している言葉に可能かどうかは別にして、それは徹底的に異質でありながら、何の共通性もないほどに異なるものでありながら、しかし、同じ質量を持ちうる。もっと率直にいえば、もっと大きな質量を持ちうる。
 これはただの独断的な断定だ。
 言葉は真実を装うことができない。そのようには受け取られないし、またそのように振る舞おうとも思わない。あの石牟礼道子の『苦海浄土』ですら、患者たちの言葉のいかほどかは石牟礼の完全なフィクションだった。そしてフィクションだからこそはじめてその言葉は発することができた。
 私はその一点で写真や映像よりも言葉は何事かであり得るのだと思う。
 それが何であり得るのかはよくわからない。単にガザの、あるいは世界の現実の前で言葉はただのペテン師の前口上に過ぎないということを述べているだけなのかもしれない。だから居直ってはいけない。誰もがペテン師だと知っているペテン師の、その前口上の言葉を字義通りには受け取らない。そしてペテン師もまた誰も字義通りに受け取ってはいないことを知っている。そこからはじまることに何かがある。あり得る。言葉を選ぶときも、誰かの言葉を選ぶことも。言葉を押しのけることであり、誰かの言葉を放り出すことでもある。
 そういえばツェランがこんなことを述べている。
 「逆立ちして歩けないことだけが彼にはときおり不快だった」――これこそがまさしく彼、レンツです。これこそが彼、彼の足を一歩踏み出させた行為、彼、彼の「フランス国王万歳」であると思います。
 「逆立ちして歩けないことだけが、彼には時として不快だった」
 逆立ちして歩くものは、みなさま――逆立ちして歩くものは、足下に空を深淵として持ちます。(『詩文集』p118)
 言葉は、おそらく、自覚的に倒錯するところに出生地をもち、空っぽの深遠であることにおいて何事かなのではないか。だからこそ世界に時に対することができるのではないか。
 さて、ではその「逆立ちの一歩」はどのように踏み出せるのか。
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