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since 2007 10 24  読み書き、見聞き、したもの。など。 twitter https://twitter.com/takagi_toshi
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多木浩二の『思想の舞台』を読んでいる。
 彼がダンスについて、あるいはダンスの写真について書いている文章は他に知らない。「専門外」のため、ときどき言い淀んだり、言葉を探しあぐねたり、少し自信なさげだったりしながら、それでも書き続けている。

 たぶん、それほどに彼にとってダンスやダンスを写し取った写真は思考を刺激するのだろう。読み手として、私はそのまだ固まりきらない思考が立ち上がる瞬間に居合わせることができるように思えるのはこの本の魅力かもしれない。


 多木浩二の文章を読むにつけ、彼の思考の<現場性>のようなことに惹きつけられる。
 むろん一般的に学者や研究者が、既成の理論や考え方のテンプレートで現実を裁断しているとは思わないけれども、彼ほど、<現場に直面して思考が始まり、現場に直面して思考が躍動する>感覚をうける書き手はあまりいない。すでに自分が考えたこと、書いたこと、吐き出した言葉を一顧だにしない。そんな気がする。
 例えば『生きられた家』や『「もの」の詩学』などを読むと、多木浩二の目や手、ファインダー、<多木浩二>としてかたちづくられてきた一つのスタイルを通しながら、「もの」そのものが流れ出してくる。いや「もの」そのものというよりも人間に現れた「もの」そのもの、というべきかもしれない。そんな手触りがある。

 『思想の舞台』のなかでこんなフレーズがあった。
 「私は美術、建築、写真の批評家であるが、たいていはほとんど即座に判断する。その場合でも長い論文を書くのは言葉と思想が熟したずっとあとになってからのことであり、そのとき、決して書きはしないが浮かんでくるのは『美しい』という言葉なのである。」
(「「美しい」という言葉 イリ・キリアンに贈る言葉」『思想の舞台』p81)

 そうか、即断するのか。
 言葉と思想が熟成時間は必要であるとして、しかしその出発点は「即断」にあるのか。なるほど。
 その「即断」は「即座の判断」だけれども意識的な行為としての「判断」ではないのだろう。むしろ「もの」と「多木浩二」が接触したその瞬間、「もの」と「多木浩二」が未分化の状態の何かから直接派生することだと思う。接した次の瞬間と言うべきか。
 それは言葉そこから立ち上がる場であり、言葉が否定される練磨の場であり、立ち上がった言葉が立ち還り構造化していく経験が生み出された場なのだろうと思う。人称すらないような、人間の内部とも外部ともいいえぬような、そのような場ではないかと思う。

 まぁ推測に過ぎないけれども、この「即断」が彼の思考の<現場性>であり、<現場に直面しての躍動性>が湧き出す地点なんだろうと思う。
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