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ノート 廣重徹『科学の社会史』(岩波現代文庫)
序章 社会のなかの科学
 「ところで、科学の体制化はごく新しい現象に属する。近代科学の歴史はおおざっぱに言って17世紀に始まるが、当時は、航海歴作成上の要求から国家的事業として進められた天文観測(イギリス)など、ごく一部を除いて、科学研究はわたくしごとであり、その社会的意味からいえば、近代社会形成の一環をなす思想的運動であった。17世紀から18世紀にかけての科学のにない手は、貴族、商人、医師など生活の余裕と余暇を持つ人々か、でなければ宮廷のパトロネージに依存する人々であった。
 ところが産業革命をへて19世紀に、科学は一つの社会的制度となった。科学を教え、さらには研究することが職業となり、科学を存続させるメカニズムが社会のなかに備わる。しかし、このときには科学はまだ、産業にとっても政府にとっても外生的なものにとどまっていた。科学を利用はするがそれをみずからの内部にとりこみはしないのである。科学の体制への編入、体制化は、世界的にみて第一次世界大戦ではじめて芽生え、第二次大戦によって決定的となるのである。
 私は前著『戦後日本の科学運動』(注 1960年)で、いま日本では科学の全面的な体制編入が進行中だと述べた。しかし、科学の体制化は日本においても、このとき突然始まったのではなかった。日本でもやはり体制化は第一次大戦で芽生え、第二次大戦中に本格的に始まったのである。第二次大戦後の10年余りは、敗戦、経済的窮乏、外国軍隊による占領などの事情によって特集な情況がつづいたが、そのあいだも体制化は無に帰したのではなく、戦時中に作られた基本的な構造は温存されていた。そして占領終結、経済的復活強化にともなって、ふたたび前面に現れ、以後は全く世界的動向に足並みをそろえるにいたっている。(p5~)

 「しかも、この『追いつき史観』は日本の科学(者)の被害者意識と表裏の関係にある。日本の科学と欧米の科学との懸隔をはかり、それを政府の施策の貧困と人びとの科学への無理解の責に帰するというのは、長いあいだ科学者の対社会的な批判的言辞のすべてに共通するパターンであった。このように言うことによって、科学者は恵まれない条件と社会的無理解の中にあって、それでも世界的な水準に到達すべく悲壮な努力を続けている集団として、同情すべき境遇にみずからを位置づけることができた。
 現象を表面的にみるなら、ひとまずそのように言うことはまちがいといえない。しかし、以下で私が示そうと努めたように、日本の科学(者)はけっしてたんに被害者でありつづけたのではない。むしろ逆に、それは体制によって育成され、ことに1930年代以来の戦争体制の強化(そして戦後は経済成長政策)を契機として格段の発展をとげた。日本の産業の重化学工業化の基礎は戦争中におかれたといわれるのと同じ意味で、日本の科学のこんにちの展開の基礎は戦争によって培われたのである。科学の体制化という点では日本も欧米諸国もまったく変わりない。日本の科学もやはり、戦争に荷担してきたことを免責されないのである。(p7~)
第一章 日本における近代科学の基礎工事
 「さて、帝国大学令は1889年(明治22年)に発布される大日本帝国憲法と密接に対応するものであった。これは文部大臣森有礼の手で一連の教育改革の一部として制定されたのであるが、森は憲法制定の中心人物伊藤博文と緊密に協力しつつ、この教育改革を進めたのである。森は駐英公使であった1882年(明治15年),憲法取調べのためヨーロッパへ来た伊藤と会い、教育の政治的重要性と改革の必要性とを語りあい、将来の協力を約したという。1885年(明治18年)、伊藤を首相としたわが国最初の内閣が発足すると、森は約束したがって文部大臣に就任し、教育改革にとりかかった。
 伊藤はドイツで法学者スタイン(L. von Stein)から憲法について講義を受けたが、そのなかでスタインは教育問題をもとりあげ、官僚養成機関としての大学の重要性を説いた。彼は官学主義を推奨し、大学の課程、年数等はすべて法律をもって定めるべきだと主張した。徹底した国権主義であり、よくいわれるドイツ流の akademische Freiheit とはまったく異なる。憲法制定顧問として日本に招かれ、数々の助言をおこなったレースラー(H. Roesler) も同様の考えをもっていた。彼によれば、大学は私立にまかせると反国家主義的となり国民思想を動揺させる危険があるから、必ず国立とすべきであり、ドイツの大学は局限された自治権をもつとはいえ、それは形式的なものにすぎず、重要事項はすべて国家が管理するところである。
 こういう考えに親しんだ森にとって、大学は何より国家のためのものであった。その考えは、『帝国大学に於いて教務を挙る。学術のためと国家のためとに関することあらば、国家のことを最先にし、最重んぜざるべからずという言葉に端的に現れている。
 こういう背景をもつ帝国大学令はその第一条で、『帝国大学は国家の須要に応する学術技芸を教授し及其蘊奥を考究するを以って目的とす』と定めている。これは2つの点で注目すべきであろう。一つは学問の研究をはじめて大学の目的の一つにかかげたことである。しかし、それはけっして大学を真理のための真理をめざす学問的共同体とみなすことではなかった。学問の教授も研究も『国家須要に応ずる』とはっきり限定されているからである。この国家主義こそ、帝国大学令の第二の、しかしいっそう重要な特色であった。これ以前には、政府も教育問題については東京大学の意向を事実上かなり重視してきたが、帝国大学令は大学の政府への従属を強化した。評議会の設置を公認して自治権を与えるかにみえながら、じつはそれは文部大臣から大学への内政干渉の通路となるように規定してあった。(p29~)
補足 坂田昌一『原子力をめぐる科学者の社会的責任』(岩波書店)より
 1953年に彼が記したことは注目にあたいする。ただし坂田自身はそれ以降、「平和と民主主義をねがう科学者の良心」とでも言うべきものにたいするあまりにも楽天的な(あるいは政治的な)立場に傾斜していく。
 「一昨年(注 1951年)日本学術会議の学問・思想の自由保障委員会が全国の科学者にアンケートを出し、過去10数年間において学問の自由がもっとも実現されていたのはどの時期であったろうかと質問したのに対し、太平洋戦争中であったという回答をよこした人が非常に多かった。これはもちろん研究費が潤沢であったという意味の答えだと思うが、日本の科学者の学問の自由という問題に対する意識がいかに低いかを示したものといえよう。過去において日本の科学者は学問の魂である自由の代償として研究費をかせいでいたが、戦後日本学術会議の発足あたってそのような卑屈な態度を強く反省したのであった。」(p24)
 はたしてそうか?
 その日本学術会議の「反省」のあとにアンケートで「率直に戦争中こそが自由であった」と回答が寄せられているのだから坂田の後段の見解は皮相だといわなくてはならないだろう。
 むしろ日本の科学者の「非常に多く」が、国家的要請への協力、戦争への協力に自己の学問的意義を見出していたいのではないのか。それは廣重の記述とあわせるならば、そもそも大学というものは、あるいは日本の「学問」は国家に仕えることを本質とするところから始まり、そうした心性を培ってきたというべきではないか。科学者の学も問的良心と戦争と国家主義は対立などしていなかったというべきではないか。
 そしてそれは原子力をめぐる今日の状況にそのままつながっているようにしか見えない。
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