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 ”一回限りの、置き換えることができない何かが言葉になるなら、その言葉は他の何かで置き換えられないはずだ。けれども言葉が他者と了解可能であるという意味で言葉であるかぎりそれは簒奪され、置き換えられ、読み替えられ、打ちのめされうるものになる。外部への水路になることと引き換えに言葉はそこに身を晒す。”
 例えば詩人は言葉にすべてを託す。パウル・ツェランはそれを「投瓶通信」といった。
 その言葉は意味論的に、あるいは統辞論的に何らかの破れをもっている。そして日常的な言語を破るところで言葉の始まりの姿を再生しようとする。
 始まりの言葉はまだ言葉の体系の内部で定義されていなかったはずだ。詩の言葉は、既存の言葉によって定義されえない何かによって、言葉が日常的な意味で言葉ではくなる地点で言葉として蘇生する。詩の実作であったり詩論であったり、あるいは佐藤信夫のような『レトリック論』であったりする。

 けれども森の歩む道はそうではない。意味論や統辞論上の破れがあるわけではない。色彩豊かなレトリックに溢れているわけではないし、エキセントリックな用語法でもない。しかし彼は言葉を穿ちつづける。彫琢し続ける。

 それはいわば日常的に使われる言葉を、事物の側に取り戻すことと言っていいかもしれない。だからこそそこには簒奪、置換、変換の危険がまっている。いやそれを必然的に招き寄せる。
 社会という言葉が日本語にもある。ある種の日本の社会生活はあるだろう。けれども森は日本に社会を定義する経験がないという。それは社会という言葉がないということに等しい。けれども森が社会という言葉を使うとき、それは少なからぬ場合、何か別のものに簒奪されていく。フランスの文脈と日本の文脈が、フランスという組織体=bodyのなかで、森有正という場で擦れ合う中で森は日本の、つまりは自分の言葉を見つめている。そこで発せられる言葉を日本において受け取ることの危うさがある。

 片山恭一の森有正論(『どこへ向かって死ぬか』)はそうした典型のように思う。森有正について論じながら、森の言葉に即して森を読み解こうとしながら、遠く異質な世界へ進んでいってしまう。

 私はいつまでも森有正のエセー群を読めない。辿っているけれども読めない。けれども触れている触感は少しある。あるいはそれは、例えばある金属の結晶をずっと手に握りしめていても、その金属についての科学的知見を得ることはできないのと同じようなことかもしれない。しかし逆にその科学的知見は、その金属をずっと握りしめている時の感覚をもたらしはしない。何かの説明はできるにしても、その説明と手のひらが感じ取っていることとは何も関係がない。
 同じように、例えばアランの文章をどうしても読めない。言葉遣いが難しいわけではない。けれども歯がたたないくらいに思う。
 フランス語からの翻訳だからかと思った時期もあった。けれどもそうではないようだ。フランスの硬い岩盤に直結したアランの文章、言葉を日本で私が受け取ることの困難さなのではないか。ある言葉がそこにある。その言葉が帰属している組織が異なる。そういうことかもしれない。

 ひょっとすると「触覚において感知する」ような言葉というものがあるのかもしれない。手触りとしての言葉。
 そういえば私がはじめて森有正の文章に触れたのはたぶん、大学1年生(あるいは2年生?)の時だった。その瞬間のことは未だに覚えている。
 森の名前は大江健三郎のエッセーを通じて知ってはいた。けれども、だから読もうと思ったわけではない。
 そのころは大学生協の書籍部と行きつけの古本屋さんと地下鉄の駅の近くの少し大きめの書店とそこから歩いて1,2分のところの喫茶店の狭いゾーンを徘徊する毎日だった。毎日のようにその4箇所には顔を出していたと思う。
 ある時、書店で森有正の個人全集を見かけた。名前を知っていたからその中の一冊を手にとってみた。たぶん、エッセー集のどれかの巻だったと思う。キチンと読んだわけではないし、未だに読めた感じがしないのだから内容の一端に触れたからではない。けれどもその言葉が織り上げる空間に吸い込まれるような、その世界の中で自分の身体が解きほぐされていくような、そうした感覚を受けたことはかなりはっきりと覚えている。身体的な感覚に近いものだったような気がする。
 それから程なく、森の個人全集を一巻ずつ揃えていった。
 その後、いろいろな諸事情があり、もっていた本をすべて売り払ったことがある。それはある種の断絶と空白ではあるけれども、また当時持っていた本の中でどうしても手元に置きたいものを買い戻している。いまもっている森の個人全集もそうして買い戻したものだ。つまり個人全集を2回買ったことになる。なかなか…だと思う。

 あの感覚はいったいなんだったのだろう?
 いままで断続的に森を読みつづけ、個人全集を2回買ったりしたのもあの感覚の正体を知りたいからかもしれない。
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